長身の魔術師レーフェン・ハーヴィは、オラン魔術師ギルド付属の療養院からの
退院明け早々に、オーファンから長期滞在している美貌の女客員上級導師に、
朝早くから魔術師ギルド内の彼女の私室へ赴くよう要請を受けた。
その客員上級導師エレーネ・アグバヤニは、以前とある魔導兵器の研究に際して、
フェンが所属する冒険者グループに、少なからぬ協力を仰いだ事がある。
更に国防大臣ドルフ・クレメンスとの知人という事もあって、エレーネ本人からの
覚えも浅からぬというところであったらしい。
病み上がりの魔術師を呼び出して何をしようというのか、という疑念を多少なりとも
抱えながら、フェンはアグバヤニ上級導師の私室へと足を向けた。
魔術師特有の、実験室のような陰気な雰囲気は欠片も感じられない一室に、思わず
フェンは、そこが本当に魔術師ギルド内部なのかと錯覚を覚えてしまう程だった。
そこそこに贅沢な調度品や、ふんわりと漂う室内香水の匂いなど、これまで妙齢の
女性の私室などほとんど訪問した事のなかったフェンにとって、色々と刺激を
受けそうな環境が見事な程に整っていた。
その日は朝から、冷たい雨が激しく路面を叩くあいにくの天気であった。
迎えに寄越された馬車から、所謂三角塔の異名を持つ魔術師ギルドの正面玄関まで
小走りに駆け抜ける間に、フェンの外套はびっしょりと濡れてしまう始末である。
幸い、エレーネの私室は暖炉による温度調整が効いており、寒さは微塵も感じない。
ぼたぼたと滴を垂らす外套を、魔術師ギルドの受付に預けてからエレーネの私室に
足を運んだフェンは、エレーネ手ずからの暖かいお茶の接待を受けた。
「わざわざごめんなさいね。こんな大雨の日に、よりによって病み上がりの君を
 呼び出すなんて。ひどい女だって思ってるでしょ?」
「ええ、そりゃまぁ」
と答えかけて、フェンは慌てて口をつぐんだ。
昔から歯に衣着せぬ物言いの彼だが、ここは少し相手が拙過ぎる。

アグバヤニ上級導師程の人物が、一介の魔術師ギルド員に過ぎないフェンを自室に
呼びつけたのは、彼が魔術師としてのみならず、冒険者としても経験を積んでいる
というその事実に、確認したい事を委ねたかったからだった。
「精霊力の異常ですか」
エレーネが切り出した内容に、フェンは興味があるのか無いのか若干曖昧な表情を
作りながら、奇妙な抑揚でぼそっと答えた。
「ええ。この冬真っ只中の時期に、オランでこれだけの豪雨は、どう考えてもね、
 ちょっとおかしいのよ」
「言われてみれば、確かにそうですがのぉ。しかし、精霊力の異常とは・・・」
明らかに、エレーネの言葉に対して疑問を抱いている様子のフェンであったが、
しかし対する美貌の女魔術師の方は、意外に確信めいた様子を見せた。
応接テーブルを挟んでソファーに向かい合う格好で腰を下ろしている両者は、実に
対照的な表情で、互いの視線を真っ直ぐ受け止め合っている。
「実はオーファンでね、過去に一度、精霊力の異常による真夏の大寒波っていう
 事件が発生しているのよ。今回の例も、その疑いがあるんじゃないかって思うの」
「はぁ、まぁ。そう言われましても・・・冬の雨なんて、有り得ない事っちゅう
 訳でもありませんしなぁ」
「私の考え過ぎなら良いんだけどね。ただ、もしそうじゃなかったら、って思うと、
 看過出来ないのよね」
「国防大臣閣下は、どうおっしゃられておるんですかいな?」
オランの権力筋においては、最も精霊力感知能力に長けている人物が、果たして
今回の豪雨をどのように見ているのか。
まずはそこから攻めるべきではないのかというのが、フェンの意見であった。
しかしこれには、エレーネは美貌を曇らせて、小さくかぶりを振った。
「それがね、青葉党の政治テロ疑惑の捜査で陣頭指揮を執ってて、それどころじゃ
 ないんだって、門前払い食っちゃったのよ」

戦士イーサン・モデイン、精霊使いにして吟遊詩人のエルクファント・レガシー、
そして戦神を信奉する美貌の女司祭ミレアンレーヌ・ファインの三名は、同じ頃、
宿泊している冒険者の店『古代王国への扉亭』の一階酒場で、朝食をとっている
最中に、のっぴきならない情報を耳にしていた。
オランの市中を南北に縦断するハザード河の上流で、沿岸の農村が堤防決壊の為に
壊滅的な打撃を受けたというのである。
「それは・・・大変だなぁ」
パンを口元に運ぼうとしていた手を止めて、イーサンはその情報を仕入れてきた
ハーフエルフの、どことなく貧相な面をまじまじと眺めた。
そのイーサンに頷きかけながら、エルクはスープをすする為に匙を動かしている。
「昨日の昼ぐらいの話だそうですよ。詩人仲間で、そっち方面に稼ぎに行ってた
 連中が、皆口を揃えて言うんですから、多分間違いないでしょう」
「でも、そういう事でしたら、このオランも決して安穏とはしていられない・・・
 という事になりますね」
二人の会話に耳を傾けていたミレーンも、まだ幼さの残る端正な面を不安げに
曇らせつつ、イーサンと同じように、パンを掴んだ手を皿の付近で止めた。
オランは頑強な外壁と、市中の路面が全てハザード河の水位よりも余裕を持って
高い位置に敷き詰められている石畳がある為、普通の増水や上流からの氾濫なら、
どうって事はないであろう。
しかし、もうかれこれ一週間ほど豪雨が続いている。
この冬の時期のオランは、どちらかと言えば雨が少なく乾燥しており、たまに
雲がわいたとしても、それは雪雲である事がほとんどである。
これほどの雨量で降り続けるなどという記憶は、近年稀ではなかろうか。
「まぁとにかく、いざって時の為の防災の心構えは必要って事だよな」
何気なく言ったイーサンのその一言が、後で重要な意味を持つ事になろうとは、
この時の三人には知る由も無かった。

オラン市中の北東に位置する下町界隈、通商常闇通りの裏手にある盗賊ギルドの 本部においては、カツェール・デュレクとクレット・アーリーの両名を含む、 ギルド構成員のほとんどが、ギルドマスターの名の下に、一斉召集を受けていた。 盗賊ギルドでは、イーサン達が聞き及んでいた情報、つまりハザード河上流付近の 農村が、堤防決壊による打撃被害について、相当深刻に考えている様子だった。 カッツェとクレットに事の次第を簡単に説明した中年の世話役も、非常に重そうな 口ぶりで、慎重に言葉を選びながら状況を解説していた。 この異常な程の深刻ぶりに、眉をひそめていたのはカッツェとクレットだけでは なさそうだった。 同じ小部屋で上述の世話役から、二人と同席して説明を聞いていた他の盗賊達も、 何故これほどまでに盗賊ギルド上層部が神経を尖らせているのか、その理由が なかなか掴めなかった。 「なんか・・・私達の知らないところで、大きな動きでもあるのかしら」 「情報管制が布かれてる、って事ですかぁ?」 左手の親指の爪を軽く噛んで渋面を作っているクレットを、カッツェが呑気に 覗き込んで聞いたが、クレットにその言葉が届いているのかどうか。 一通りの状況を聞き終えた二人が、世話役の部屋を出てから薄暗い廊下を出口に 向かって歩いていると、見覚えのある美貌が、これまた深刻な表情で奥の角に 消えようとしていた。 ミシェル・アルカンタラである。 思わず追いかけて、事情を聞きだそうとしたカッツェであったが、何か不穏な 空気を察したクレットが、軽く肩を掴んで、少年盗賊の動きを制した。 「なんだか凄く嫌な予感がする・・・首を突っ込んだら、只では済まないような、  って感じのね」 クレットの、そんな予感が的中したのかどうか。 アレクラスト大陸東方に栄える随一の大都市オランは、ハザード河の突然の氾濫に 脆くも崩れ去る事になる。 午前9時17分。陸の津波襲来。


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