被害は予想外に大きかった。
ハザード河の上流にあたるオラン北方から押し寄せた陸上の津波は、まずは街の
周囲をがっちりと固める石積みの重厚な外壁を、覆いかぶさるような高さから一気に
押し潰し、瓦礫とともに市内方向へと雪崩れ込んできた。
分厚い街門などは跡形も無く粉砕され、その左右に立つ見張り尖塔も、砂浜に作った
砂城が波に洗われるが如く押し流されてしまった。
外壁を一撃で叩き潰した津波の余波は、更にオラン市内北部の家屋をも飲み込んで、
そこで生活を営む人々もろとも、茶色い濁流となって浸水域を急速に広げた。
オランの街並みは、基本的に石造りの建造物が大半を占めており、比較的頑丈な
構造のものが多いのであるが、しかしそんな事はまるでお構い無しに、凍てつく程の
冷たさで、豪流は家々を基底部分から破壊していった。
この陸上の大津波という現象だけでも十分異常な脅威なのだが、それだけではない。
例年よりも遥かに厳しい寒波が襲う、真冬の凍気が、更なる被害を拡大している。
降りしきる豪雨と、押し寄せる濁流で体温を奪われた上に、そのとどめとして、
肉体機能を著しく低下させるだけの冷気によって、比較的体力の劣る老人や子供に
命を落とす者が少なくなかったのである。
まるで爆弾が投下された様な凄まじい様相を見せるオラン市街北部程の凄惨さは
無かったものの、ハザード河岸の街並みも、ほとんど壊滅状態に陥っていた。
市中でも比較的海抜の高い太陽丘でさえ、床上浸水などという生ぬるい状況では
終わらず、ほとんどが二階付近まで汚水に浸るという有様であった。
一体どこから、これだけの水量が押し寄せ、しかもその恐るべき水位を維持して
いるのであろうかと、誰彼ともなく疑問に思うところであろう。
しかし、この悲惨極まりない状況は、ほとんどの人々から冷静な思考力を奪い去り、
ただ見失った家族を必死になって捜し求めたり、あるいは自身の命を守る為に、
懸命に水の暴力から逃れようとするばかりであった。

市街内部や、外壁のすぐ外側に形成されるスラム街などの住民なども全て含めて、
アレクラスト大陸随一の大都市オランの人口は数万を数えると言われる。
しかしこの突然の悲劇によって、その半数近くが死傷したと考えて良いだろう。
それも一瞬で命を奪われた者はまだ救いがある方であり、濁流と寒波によって、
体温が急激に低下し、寒さに凍えながら命を落とす者は最期まで苦痛を味わい
ながら死んでいく事になるだろう。
満足に暖を取る手段も無く、無為に冷気の中でその身を晒さざるを得ない市井の
人々の悲惨な姿は、見るに耐えない極寒地獄であった。
体力に優れる筈の冒険者でも、駆け出し程度の者ではまず助からないだろう。
それほどの危機が、このオラン全体を死神の影の様に押し包んでしまっていた。
オラン市中でも比較的北方に位置する常闇通りは、津波襲来の第一波による
直撃をまともに受けた街区であり、古代王国への扉亭も、そして盗賊ギルドも、
ものの数秒のうちに消し飛んでしまった。
イーサン、ミレーン、エルクの三人は、ほとんどばらばらに流されてしまい、
お互いの安否を確認する事が出来ないまま、行動を起こさざるを得ない。
ずぶ濡れになりつつも、商業街区辺りでようやく濁流から脱出し、民家の屋根の
上に逃れたイーサンなどは、背後を振り返って絶句した。
数え切れない人数が、絶叫に近い悲鳴をあげたり、或いは弱々しく力無い声で
泣きながら、濁流から逃れようと必死になっている。
しかし中には、激流とも言える程の流れに抗えるだけの体力が無く、か細い
断末魔を残して水中へと沈んでいく者も少なくない。
ようやく屋根や高台の上に逃れた市井民も、決して安全ではなかった。
ハザード河を中心にして発生する大波が、辛うじて脱出した人々をその場から
さらっていくのである。
降り注ぐ大雨の為、足場が濡れて安定しない事もあり、そういった大波に、
呆気無い程簡単に流されてしまう人々の数は、後を絶たなかった。

こうなると、最早オラン騎士団などは完全に無力である。
むしろ彼らも他の市民と同様に罹災者と化し、必死に逃げ惑うのが精一杯となり、
逆に早くから安全な場所に逃れている市民に助けられるという皮肉な光景が、
そこかしこで展開される有様であった。
(天変地異か・・・)
この壮絶な状況を呆然と眺めているイーサンの脳裏に、ふとそんな言葉が浮かぶ。
文字通り、これは天変地異と言って良いかも知れない。
イーサンは屋根伝いに民家から民家へと梯子しながら移動し、周囲の状況を
改めて確認しようと試みた。
レンジャーとしての技能を持つ彼は、瀕死に陥っている市井民が居れば、即座に
応急措置を施して、命を繋ぎ止めようとも考えたのだが、しかし状況はそんな
彼の思いを許してくれる程に甘くは無かった。
死亡した者はもとより、昏倒して意識を失った者も、押し寄せる大波が次々と
水間にさらってゆく為に、結局濁流から逃れているのは、寒さに震えながらも、
何とか意識を保っている者ばかりなのであった。
(今の僕に、一体何が出来ると言うんだ・・・?)
自身の無力感に打ちのめされながら、イーサンは自問した。
これまで幾つもの冒険を積み重ね、少なからず人々の感謝を受ける事も経験し、
彼なりに、人助けの出来る力量というものに、自信を持とうとしていた矢先。
これほどの凄まじい大災害の前では、ほとんど何一つ為す事も出来ず、ただ
呆然と、遠くで濁流に飲み込まれていく人々の無残な姿を眺める事しか出来ぬ。
今までの自分は一体何だったのかと、そんな否定的な感情すら沸いた。
結局のところ、彼は戦士であり、冒険者である。
災害救助のスペシャリストとはまるで無縁の人生しか、歩んでいない。

逆にエルクは、濁流に飲み込まれながらも、水の精霊力の存在を咄嗟に感知し、 何とか手近の民家の屋根上に這い上がったところで素早く呼吸を整え、一息 入れたところで水の精霊に助力を乞い、水上移動を可能にする事を忘れなかった。 凄まじいまでの勢いでオラン市中を蹂躙する濁流ではあったが、水上歩行の 精霊法術を駆使したエルクにとっては、多少足場の悪い盛り上がった路面、 という程度に過ぎなかった。 豪雨と寒波に体温を奪われるのにはさすがに閉口したが、水際で激流に危うく さらわれそうになる人々を水面上から救い出し、濁流の上を難なく移動しては また別の場所で市民を救うという行為を繰り返している。 (水の精霊達が、恐怖におののいている・・・一体、何が起きてるんだ?) 自然と、エルクの足はオラン商業街区に向かっている。 同じ精霊使いとしては先輩格にあたるアシュレイ・デルトラスと合流を果たし、 何とか状況の分析を試みたいという思惑が、少なからず胸中にあった。 そんなエルクの思いが通じたのか、彼と同様に、茶褐色の不安定な濁流の路面を 歩く二つの影が、エルクの存在に気づき、小走りに近づいてくる。 豊満且つ妖艶な肉体美を、ボディーラインがそのまま形として出てしまうような 革製の衣服を身にまとったアシュレイと、そして雇い主であるキンデラン商会の 当主サイラス・デュバルの両名であった。 「エルク、無事でしたか」 ダークエルフ特有の黒い肌も、雨に濡れると一層艶かしく見えてしまうのは、 これはもうアシュレイ個人の色香以外に言いようが無い。 それはともかく、力有る友人と早めに合流する事が出来た事で、エルクには 多少心のゆとりがあった。 「ミレーン!」 聞き慣れた声が、豪雨の激しい音を潜り抜けて、美貌の女司祭の鼓膜に届いた。 流れ着いた商家と思しき家屋の屋根の上で、濁流に飲み込まれようとしていた 中年女性を、その外見には似合わぬ豪力で引き上げていたミレーンのもとに、 盗賊ギルド方向から屋根伝いに移動してくるクレットが駆け寄ってきた。 「無事だったのですね。良かった・・・」 お互い力量を知っているから、さほど心配はしていなかったとは言え、矢張り こうして無事な姿を見ると、ほっと胸を撫で下ろすのが人情と言うものだろう。 分厚く垂れ込める暗雲の向こうに、僅かな陽光をぼんやりと放っている太陽を 恨めしげに眺めながら、クレットは全身ずぶ濡れになりつつも、ミレーンを 手伝って、中年女性を波の届かない位置にまで引き摺り上げた。 「他の皆は?」 「分かりません。無事だと良いのですが」 ミレーンの言葉に、クレットは僅かに表情を曇らせた。 盗賊ギルドで一緒だった筈のカッツェの姿が見えないのが、不安でもあった。 「ざっと見ただけなんだけど、ひどい状況だね」 クレットが言うまでもなく、オランの壊滅ぶりは言語に絶する。 広大な面積を誇る筈の巨大都市が、ものの数時間のうちに、ほとんど水没して しまったような状況なのである。 オランのみならず、郊外にまで濁流の範囲が広がっており、さながら汚水の 海のような状態と化していた。 八方塞とは、まさにこの事であろう。 小船か何かで移動しようにも、次々と押し寄せる大波によって、あっさりと 転覆してしまうのは目に見えている。 辛うじて、水面から見える家屋の屋根伝いに移動する事は出来ても、距離が 離れている大通りの向こうの区画に移動するには、精霊使いのように、水面上を 歩行する能力が必要になるだろう。 国防大臣ドルフ・クレメンスの自邸もまた、押し寄せる激流の洗礼を浴びた。 が、通常家屋とは比べ物にならぬほどの頑丈な構造である為、屋敷そのものが 押し流されるような憂き目には遭っていない。 加えて、三階建てである事も幸いし、辛うじて、寒さを凌ぐ事は出来る。 しかしいつ、水位が急激に上昇するかも分からない為、予断は許されない。 結局のところ、水没を免れた三階部分は急造の避難場所として、クレメンス邸の 家人達が脱出の準備を進める拠点とする程度に留まっている。 毛布で小さな体躯を包み込み、ハーフエルフ娼婦エイメカ・バノワの肉質豊かな 体にしがみついていた美少女ミーニャ・フィッティバルディのもとへ、フェンが ひょっこり姿を現したのは、オランが水没して十数分と経過しない頃であった。 ダークエルフの血を引く黒い肌の少女は、三階テラスから無造作に入ってきた 長身の若者の姿に、ぱっと明るい笑顔を作って出迎えた。 「ちょっくら邪魔しますぞぉ」 全身をずぶ濡れにしたまま、テラス付近で立ち止まったフェンに、エイメカは 愛らしい丸顔に呆れた表情を浮かべた。 「一体、どうやってこの濁流の海を?」 「いや・・・泳いできたんじゃが」 エイメカが放り投げたタオルで水分をたっぷり吸った髪を拭きながら、フェンは 相変わらずのマイペースな口調で答える。 本当に病み上がりかと疑わせる程の健康ぶりであった。 思わぬ珍客の来訪に気づいたのか、別室で作業していた漆黒の巨漢がのっそりと 姿を顕した。アンダーテイカーである。 この男もまた、死人のような青白い肌が広がる強面を、濡れたような艶を見せる 長髪を顔面に垂らして覆っている為、まるで生ける屍のような雰囲気を漂わせて いるのであるが、フェン同様極めてマイペースで、全く気にする素振りが無い。

「国防大臣閣下はおらんのかいのぉ?」 「まだ戻っておらん。大方、行政府で捉まっておるのだろう」 抑揚の無い野太い声でフェンに答えつつ、テラスの向こう側に広がる濁流の 海とも言って良い水没した街並みを、無表情に睨みつける。 「水の精霊波動が極度に乱れておるようだ。何か接近している可能性が高い」 アンダーテイカーの分析に、フェンは素直に感心したような声を上げた。 「あんた、精霊使いとしての心得もあるんかいのぉ?」 「無い。しかし分かる」 素っ気無い返答を返してから、そのまま踵を返して部屋を出ようとしたのだが、 不意に何かを思い出したように足を止め、丸太の様に太い首を巡らせた。 「そう言えば、お前の仲間が流れ着いていた。年若い小僧だ」 「お。カッツェ来とるんか」 どうやら、アンダーテイカーの話によれば、ミーニャを心配してフェンと同様、 この激流の中を泳ぎ抜いてきたらしいのだが、運悪く、流木に全身をしたたかに 叩きつけられ、肋骨を骨折したまま泳ぎ着いたらしい。 幸いアンダーテイカーの特殊な能力によって、骨折は治癒したのだが、受けた ダメージが意外に大きく、浸水していない三階の別室で、休息しているらしい。 「既に体力も回復している。そのうち起き出してくるだろう」 「そりゃあ、お世話かけまして」 神妙な面持ちで頭をぼりぼり掻きながら礼を述べるフェンに一瞥を残して、 アンダーテイカーは退出していった。 ミーニャとエイメカを脱出させる為の準備を進めているとの事であった。 そのアンダーテイカーと入れ替わるようにして、カッツェが妙に寝ぼけた顔で 部屋に入ってきた。


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