巨大な鮫と思わしき生物が、ミレーンの目の前で子供を一飲みに飲み込んで、
そのまま濁流の水面下へと消えた直後。
豪雨に叩かれ、且つ激しい風によって波立つ水面に、真紅の染みがぼんやりと
その付近一帯の水面を染め上げ、やがて拡散していった。
あの子供は、突如出現した恐るべき化け物の餌食となり、まだあまりにも短い
人生を一瞬にして終わらざるを得なかったのだ。
ミレーンの心の底に、怒りの念が不意に湧き起こってきた。
抵抗する事すら出来ないまま、子供はその小さな命を散らす事となった。
その理不尽な死を、戦神の高司祭は許す事が出来なかったのである。
とは言え、今のこの状況では、何をどうする事も出来ないのもまた事実であった。
巨大な鮫は現在も尚、激しく波立つ水面下を悠々と泳ぎ渡り、次なる獲物を
探し求めているのだろう。
対するミレーンはと言えば、不安定な足場に過ぎない濡れた屋根の上を、半ば
這いつくばるようにして辛うじて移動し、濁流から逃れようともがいている
市民を引っ張り上げるだけで、ほとんど精一杯のような状況である。
いずれが有利であるかは一目瞭然であり、真正面から戦いを挑んで良いような
相手でない事は、怒りの感情を差し引かなくても、十分に理解出来た。
ミレーンは咄嗟に、周囲の水面にも視線を走らせた。
曇天に陽光が遮断され、不気味なほどに薄暗いその世界は、降りしきる豪雨と、
街路を満たす濁流の冷たい光景が、大半を占めていると言って良い。
既にミレーンの肉体も相当に冷え切っており、体力の消耗は激しいのであるが、
あの巨大鮫の出現を目の当たりにした以上、疲れたなどと言って呑気に構えて
いられる状況ではなくなっている。

不意に、ミレーンの足場である家屋が大きく揺らぎ、美貌の高司祭は危うく
足を滑らせて、濁流の中へ転倒しそうになった。
流木が何かが家屋の外壁にでも衝突したのだろうか?
いや、そうではない。
ミレーンはこの衝撃に、何かしらの意図を感じてならなかった。
振動は一度では収まらず、二度三度と続き、それが明らかに、人為的なもので
ある事が、疑うまでもない状況になった。
(まさか・・・さっきの鮫が・・・?)
危険を承知の上で、ミレーンはそっと上体を伸ばし、軒先の向こうに見える
茶色く波立つ水面に視線を飛ばした。
と、ほぼ同時、ミレーンが覗き込もうとしていた濁流表面がいきなり盛り上がり、
凄まじい水飛沫、いや、水柱を立てて、獰猛且つ残忍な牙がずらりと並ぶ巨大な
口が絶望の暗闇の如き空洞を大きく開けて、ミレーンの目の前に出現した。
悲鳴をあげる事すら忘れて、ミレーンは大きく上体をのけぞらせながら、尻餅を
ついたような格好で、自分でも驚くぐらいの速さで屋根を頂に向けて後退した。
今や完全に、その生物が鮫である事を、至近距離で視認したミレーンだったが、
そんな事よりも、一瞬の判断が生死を分けたというこの出来事を理解するまでに、
多少の時間を要してしまった。
更に家屋が揺れた。
今度の揺れ方は、先ほどまでの揺れとは異なり、複数の衝撃が間断無く押し寄せ、
家屋そのものを破壊しようとしているとさえ思われた。
(鮫は一匹じゃない!)
ほとんど瞬間的に、ミレーンはそう判断した。

屋根の煙突付近にまで登り、何とか滑り落ちないよう両手で煙突にしがみつき、
ミレーンは、水面上に時折姿を見せる、複数の背鰭をじっと凝視していた。
(どうして鮫が・・・?海水でしか生きられない生物なのでは・・・?)
いくら考えても、今のミレーンには答えが出ない。
冷たい濁流を何度か頭から浴びてしまう事もあった美貌の高司祭ではあったが、
しかし別段、海水特有の塩辛さなどは感じる事がなかった。
つまり、ハザード河上流から押し寄せてきた陸の津波と、そしてその直後に
オラン市街を覆い尽くした濁流は、紛れも無く淡水なのである。
そしてミレーンは、今、濁流の下で家屋に体当たりを浴びせている鮫の群れに、
不気味な程に高度な知能の片鱗を感じてならなかった。
数匹の鮫はただ闇雲に家屋の外壁に体当たりを加えているのではなく、明らかに
一点に集中して打撃を加えているのである。
このまま今の家屋に留まっていたのでは、いずれ外壁や主柱が破壊され、濁流の
中へと転落を余儀なくされるだろう。
かといって、迂闊に移動しようとすれば、衝撃の為に濡れた屋根上を滑り落ちる
可能性も高い。
完全に八方塞であった。
法力で反撃しようにも、敵は濁流の下に姿を隠してしまっており、正確な位置が
まるで掴めないのである。
(マイリーよ、私に勇気を・・・!)
いよいよミレーンは、覚悟を決めなければならないと判断した。
このまま無様に食い殺されるのを待つぐらいならば、戦神の使徒として、勇敢に
戦いを挑んで散るという壮絶な最期を、自ら選択せねばならない。

ミレーンにとっては、想像外の事態が発生した。 家屋を破壊すべく、巨大鮫の群れが水面下の外壁に加えていた体当たりが、不意に 途絶えたのである。 のみならず、不安定にぐらつく家屋の軒下に、濁流の本来の流れとは明らかに 異なる波が激しく隆起し、時には渦をも巻いて、その一角だけが別次元の水流を 形成しているように思われた。 複数の巨大な何かが、濁流の底で激しく争っているのではないか。 少なくとも、ミレーンにはそのように思われた。 茶色く染まる濁流の奥底で、時折、光の棒状のようなものが煌くのが、ミレーンの 視覚の中で間違い無く動いているのが確認された。 やがて不自然に激しく波立つ水面上に、夥しい量の血液によるものと思われる 真紅の染みが広がり、広がっては濁流の激しい波によって分散し、そしてまた、 新たな鮮血が水面上に浮かび上がるという状態が繰り返されるようになった。 それからおよそ数分後、いきなり全長5メートルはあろうかという巨大な鮫が、 濁流の底から全身をばねのように反動させて跳び上がり、水飛沫を豪雨以上の量で 周辺家屋の屋根にばら撒くという光景が展開された。 全身に無数の傷を負い、相当な量の流血を強いられているその巨大鮫を追うように、 今度は水中から十数本の光の弾丸が飛び出してきて、空中に舞った巨大鮫の全身を 一斉に撃ち抜いた。 (これは一体・・・!?) 呆気に取られるミレーンの目の前で、全身を撃ち抜かれて瞬間的に絶命した鮫が、 再び水柱を上げて濁流の水面に激突するのと同時に、今度は全く異なる影が突如 水中から浮上し、更に驚くべき勢いを以って水面上数メートルという高さにまで 跳躍していった。 4メートルはあろうかという人型のその姿は、全身が金属に覆われた巨人であった。 (ミレーンか!?) イーサンは、ドレイクドールの擬似視覚の片隅に、見慣れた美貌の女司祭と思しき 姿を認め、ほとんど瞬間的に、その部分をデジタル拡大した。 間違い無くミレーンであった。 巨大鮫との戦闘で、濁流の水面上に跳躍したイーサンに、驚愕の表情を向けている。 無事で良かった、と思うよりも先に、イーサンは濁流の水面下に展開する巨大鮫の 群れにパルス機関砲の銃口を向け、マルチロックオンシステムを起動する。 ドレイクドールの外部入力ディスプレイ信号から、イーサンの擬似視覚に送られる 情報が巨大鮫の正確な位置と、ロックオンを示すオレンジ色の円を複数個視認した。 パルス機関砲はイーサンの意図から出る命令を瞬時に実現し、連射モードから、 散弾モードへと弾丸射出方式を切り替えている。 イーサンは迷う事無くパルス機関砲のトリガーを引き、純白に近い色合いに輝く、 超熱徹甲弾道を滝のように降り注がせた。 装弾数を著しく消耗する戦法だが、複数の敵を一度に始末するには、これが最も 適しているのである。 最大射角45度という、通常では考えられない範囲をカバーしつつ、イーサンは 水面下に展開する巨大鮫の群れをまとめて始末した。 およそ300発分というパルス機関砲の超熱量を一斉に浴びた濁流の水面は、まるで そこだけが熱湯地獄であるかのように沸騰し、もうもうと水蒸気を上げ始めた。 イーサンの駆るドレイクドールは、100度近い水面に着水し、首の辺りまで 沈んだところでハイドロジェットを再起動し、上半身を水面上に浮上させた。 もちろん、沸騰した水面の熱さなどは微塵も感じていない。 しかし、数匹の巨大鮫の全身から漂い出す鮮血も同時に蒸発して、視界を真っ赤に 染めてしまうのは、あまり気分の良いものではなく、イーサンでなくとも、この 異様な光景にはうんざりしてしまう事だろう。 ミレーンは、巨大鮫の群れを無傷で全滅させた金属の巨人の接近を、警戒する事も 忘れたようなあどけない表情で、じっと眺めていた。 本能的に、敵ではないという事が、理解出来ているからこその、無防備な様子で あったと言って良い。 しかし、次に彼女が聞いた思いがけない人物の声音には、腰が抜ける程に仰天した。 『ミレーン、無事だったのか。良かった』 「イ、イーサン!あなたなのですか!?」 『ああ、これか。僕はこの鉄巨人の中に居るんだ。詳しい説明は省くけど、これは  クレメンス大臣邸で借りてきた搭乗型のゴーレムで、ドレイクドールっていう  代物なんだそうだよ』 外部スピーカーに声を流しながら、イーサンはようやく冷め始めた真紅の水面上を ゆっくりと移動し、ミレーンが煙突にしがみついている家屋の屋根の軒先上に、 両手をかけた格好で停止した。 相変わらず濁流の波は激しく、豪雨も降り止む気配を見せないが、そんな事には お構い無しで、イーサンはバックパックをせり上げ、背面開閉式搭乗口を開放して、 ひょっこり姿を見せた。 本人の登場に、ミレーンもようやく安堵したのか、つい自然な笑みがこぼれた。 「やっぱりイーサン、あなたのお顔を見ると安心しますわ」 「ここは危険だから、とりあえず移動しよう。ドレイクドールの肩に乗って  移動すれば、さっきの鮫野郎が現れても安全に対処出来るからね」 言ってから、イーサンは再び総金属製の巨人の背中の中へと姿を消し、搭乗口の 扉を閉めて通常稼動状態へと戻った。 イーサンと全く同じ仕草で差し出すドレイクドールの無機質で硬質な腕に、一瞬 ミレーンは戸惑いを覚えながらも、その若々しい体躯を預ける事にした。

同じ頃、ドレイクドールを駆って水没したオラン市中を北東に向けて移動を 続けていたカッツェは、途中でエルクを拾い、更に大勢の市民達を、家屋群の 屋根上で保護していたクレットとも合流した。 エルクにしろクレットにしろ、ミレーンがイーサンと合流した時と同じような 反応を示したのだが、矢張りカッツェもまた、イーサンがミレーンに対して 語ったのと同様の説明文句で一応の理解を得た。 尤も、こんな金属巨人の突然の出現に、市民達は一時、パニックに陥りそうに なった事も付記しておく。 「アンダーテイカーか・・・何かとお世話になる人よね」 『あ、そのアンダーテイカーおじさんなんですがぁ、大臣邸を出る時に聞いた  お話ですとぉ、エイメカお姉ちゃんとミーニャちゃんを連れて、えーっと、  何だったかな・・・あ、そうそう、確か、ドライスデールっていうところに  一旦移動するって言ってましたぁ』 カッツェの説明に、クレットとエルクは小首を捻った。 ドライスデールという地名は、聞いた事もないからである。 少なくとも、オラン国内にはそのような領も村も存在しない筈であった。 「でも、あのアンダーテイカーさんがお二人を連れて行くっていう場所ですし、  多分安全なとこなんでしょうね」 幾分寂しそうな色を面に浮かべつつ、エルクは妙に納得した様子で腕を組む。 しかしカッツェとクレットは、それどころではなかった。 カッツェはコンウェイ医師の行方が依然として分からず、やきもきしている 状態であったし、クレットはクレットで、市民を脱出させる経路がまるで 見つからず、すっかり困り果てているというのが正直なところだったからだ。 イーサン、カッツェと同じく、ドレイクドールを借り受けて、水没した市中を 自在に行動する事が出来るようになったフェンは、他の二人とは異なる方面へ 進路を向けた。 ディバース邸である。 いけ好かない人物であるエイテル・ディバースに、この水害に対処する為の 方策を相談しに行く事が、フェンの当面の目的であった。 恐らく、オラン貴族の中で、治水や河川の形態に最も詳しい人物と言えば、 ディバース候を置いて他に居ないだろう。 フェンのこの予測は間違っていない。 しかし、思わぬ問題が発生していた。 貴族や豪商などが邸宅を構える高級住宅街もまた、他の区画と同様に、濁流が 容赦無く押し寄せ、二階部分までがほとんど完全に水没してしまっている。 そこまではフェンの予想の範疇だったのだが、彼の想像を越える存在が、彼の 行く手を阻んでいた。 (ありゃあ何じゃあ?) 思わず内心で呟いたフェンは、ドレイクドールの推力を一旦停止させ、水中で 家屋の角に隠れるような格好で、ディバース邸方面に横たわる幅の広い街路を じっと凝視した。 幾つかの巨大な影が、ディバース邸前の水没した大通りを、まるで縄張りでも 守るかのような形で往来しているのである。 望遠レンズでその姿形を確認してみると、それはどう見ても巨大な鮫であった。 (こりゃまた、なんでこんなところに鮫なんぞがおるんじゃ?) フェンの知識の中には、淡水の鮫などは存在しない筈である。 が、現にこうして、数匹の巨大な鮫が、ディバース邸前の大通りを占める 濁流の中を、我が物顔で遊泳しているではないか。 嫌な予感がフェンの脳裏を瞬間的に横切った。


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