河
エ最早、一刻の猶予も許されない。 クレットは全力を振り絞って泳ぎに泳ぎ、まだ破壊されていない家屋に、何とか 辿り着く事が出来た。 今のままでは、やがて体力を消耗して濁流に流されてしまう。 そこで、一旦濁流の上に引き上げ、手荷物の中からロープを取り出した。 自身の細い腰周りにロープの一端を巻きつけ、逆の一端を頑丈な煙突に結びつける。 命綱を確保した訳だが、次々と流されてくる流木や瓦礫によって、ロープ自体が 断ち切られてしまう可能性もある。 また、巨大鮫の獰猛な牙によってあっさり噛み切られる可能性も否定出来ない。 それでも、命綱の存在は、有ると無いとでは雲泥の差であり、少しでも役に立つ 可能性が残されているのであれば、予防線を張っておいて損は無いのである。 「よし・・・いくか」 ロープの両端がしっかり固定されているのを確認すると、クレットは一息入れて、 再び冷たい濁流の中へと身を躍らせた。 激しく波打つ茶色い水面は、時折不自然な渦が巻き起こり、その下に、不気味な 黒い影が幾つも見え隠れしている。 襲われたら、ひとたまりも無いだろう。 それでもこの女盗賊には、仲間のハーフエルフを見捨てる事など出来よう筈もなく、 敢えて死地に飛び込んでいく。 エルクがこの激しい濁流に押し流されず、どこかの障害物辺りに引っかかり、且つ 命綱の長さが保証する行動範囲内に留まっている事を祈りながら。 形の良い唇に、銀製の短刀を銜えているのは、巨大鮫に襲われた際の、せめてもの 抵抗装備として、言ってしまえば自身に気休めを課す程度に過ぎない。 カッツェの擬似視覚内に、クレットが濁流に飛び込む姿が映像として入力された。 (クレットお姉ちゃん、ごめんなさい!猫が不甲斐無いばっかりに・・・) 別にカッツェが悪い訳ではなく、状況そのものがあまりにも絶望的に近過ぎた。 ただそれだけの事なのだが、しかし、この場に居る面子の中では、唯一巨大鮫に 対抗する事が出来る戦闘力を持つだけに、責任を痛感してならない。 今も尚、三匹の巨大鮫が放つ凝縮水圧波の連続波状攻撃に手を焼いているのが 現状であり、なかなかエルクや、他の市民達を救う為に動けない。 出来れば、鮫の群れに突入し、エルク捜索の一助になりたいとは思うのだが、 しかしここで迂闊に強行突破を試みれば、包囲陣形を敷く三匹の巨大鮫に背後を 取られ、痛恨の一撃で連打を浴びるのは目に見えていた。 更にカッツェを苦しめているのは、パルス機関砲を下手に連射する事が出来ない という状況であった。 現在、大勢の市民が濁流中に放り出されており、パルス機関砲の流れ弾が、彼らに 被弾するかも知れない危険性が高かったのである。 確実に狙いを定めて、巨大鮫に命中させればそれで済む話なのだが、凝縮水圧波を かわしながら、更に命中精度を高める事など、今のカッツェの技量ではほとんど 不可能に等しい。 結局のところ、プラズマブレードを振るって巨大鮫の接近を封じる以外に手が 無いというのが、カッツェの置かれた厳しい現状であった。 (イーサンお兄ちゃん、フェンお兄ちゃん、応答してぇ!) カッツェは尚も、緊急支援要請コールを流し続けているのだが、未だに応答が 返ってこない。 イーサンとフェンは、ドレイクドールを駆ってディバース邸を飛び出した。 ディバース邸の家人達が、緊急に脱出を要していない為、支援を要請してきた カッツェのもとへ、急いで向かったのである。 実際、ディバース邸三階は、まだ浸水しておらず、巨大鮫による被害も、まだ 何一つ被っていない。 つまり、ここは今の時点では安全なのである。 残ったのはミレーン一人だけであったが、戦いと勇気を説く戦神の高司祭が、 脱出の為に知恵を貸すとあって、ディバース邸家人の心理には、多少ならず ゆとりが生じた事は確かであった。 ミレーンとしては、怪我人が居れば治療も施すつもりだったが、不幸中の幸い、 誰一人として怪我らしい怪我を負っている者は居なかった。 「もう一度、考えましょう。何か脱出する為の手段が無いかどうか」 「んだな。どうせ暇だなし」 美貌の高司祭の言葉に、オリビエも軽く頷きながら、家人達の顔を見渡す。 誰か良いアイデアは無いか?という問いかけの視線を送っているようだ。 しばらく静寂が暗い寝室内を支配していたのだが、不意に、老齢の執事が何かを 思い出したように、あっと声をあげた。 「そう言えば、何年か前に、旦那様が親交のあるエレミアの某貴族から贈られた 魔装具がございました。確か、空飛ぶ絨毯とかいうものでして、ここに居る 全員が乗っても尚、余裕のある面積を誇る飛行用魔装具だったかと」 但し、その魔法の絨毯は、地下の倉庫に仕舞い込んでいるのだという。 水没した地下倉庫まで、精霊法術による水中行動能力賦与が必須であろう。 |