エルクは、フェン、ミレーン、オリビエの三人に水中呼吸の精霊法術を行使した
直後に、頭痛を訴えてその場にしゃがみ込んでしまった。
古代語魔法にしろ精霊法術にしろ、精神力を短時間中に大幅に消耗すると、強烈な
偏頭痛に襲われるのが常識となっており、この場のエルクもその例外ではなかった。
精霊法術を正確に行使させる為に、クレットがエルクに肩を貸して支えていた。
魔晶石もガメル銀貨も、全て背負い袋とともに失った女盗賊としては、出来る事と
言えば、せいぜいこの程度であり、それ以上の協力が出来ない事が、本人としても
非常に歯痒かった。
丁度、三階から二階に下りる階段の手前の辺りの廊下で、エルクは精霊法術を
三人に行使した。
階段は、数段下りた辺りから冷たい濁流で満たされており、長時間潜っているのは、
生命の危機に直結する。
そこでオリビエが道案内役として同行し、魔法の絨毯獲得の為の時間を少しでも
短縮しようという事になったのだ。
直接生命の危険が待ち受けている極寒の濁流の中に、現通産大臣の愛娘を冒険者が
道案内として同行させるというのは、通常の感覚で言えば異常であり、本来なら
あってはならない事なのだが、オリビエ本人の気さくで積極的な性格が幸いし、
二つ返事で快諾してくれたのだった。
「お気をつけて、行ってきてくださいね・・・」
エルクが水中戦闘用に、自身の愛用の槍をオリビエに手渡す。
金属鎧で重装備を固めた美貌の令嬢は、薄暗い屋内で太陽のような笑みを返した。
「こいちゃでぇじにすっけぇな」
その天真爛漫な笑顔に、むしろエルクは心が痛むような感覚を覚えた。

かくして、光球の呪文を行使して照明係を自任するフェンが、先頭のミレーンと、
最後尾についたオリビエに守られる格好で間に挟まれ、三人は冷たさのあまりに
全身が縮んでしまうような極寒の濁流の中へと潜っていった。
水中呼吸の精霊法術を受けたからと言って、濁流中で自在に行動出来るという
訳ではない。
一階から地下付近にも至れば、当然ながら水圧による行動の制限が生じてくる。
特にフェンは、重装備で身を固めていない為、潜れば潜るほど体が浮いてしまい、
移動するだけでも結構な体力を要求された。
逆にミレーンとオリビエは、重い金属製鎧を纏っている為、体が浮く事は無いが、
いざ武器を抜いて戦うような事態が生ずれば、のしかかる水圧が全身の動きを
大きく阻害し、まともな戦術は取れない事を覚悟せねばならない。
更に彼らの行動条件を大きく制限しているのが、この冷たい水の濁り具合である。
フェンが光球の呪文でまばゆい光の球を作り出しているとは言っても、これほど
水が濁ってしまっていては、視界が届くのはせいぜい1メートルから2メートルと
いった距離であり、濃い霧の中を進むようなものである。
オリビエの道案内が無ければ、短時間で地下倉庫に辿り着くのはほぼ不可能だろう。
「鮫が入り込んでなければ良いのですが・・・」
不安に駆られたミレーンが思わずそう呟いたのも無理は無い。
基本的に、鮫は嗅覚に優れており、血の匂いのみならず、生物の匂いにも敏感で、
こちらの視界が届かない範囲から気配を嗅ぎつけられる可能性も高いのだ。
「まぁ、出てきたら出てきたでそん時じゃな。出来る限り魔法で援護するけぇ、
 おんしらぁは絨毯探しに専念しとくれや」
フェンの呑気な声に後方を振り向き、そして再び前方に視線を転じたミレーンの
真正面に、不意に鋭い牙が並ぶ大きな口が、顎を目一杯開けて現れた。

丁度そこは、一階のロビー裏手に当たる少し幅広の通路であり、地下の倉庫へ
向かう中では、唯一面積の大きな移動経路であった。
オリビエはこの通路で鮫と遭遇しないかという懸念を抱いていたのであるが、
その不安が見事に適中してしまった格好となった。
濁流の勢いで玄関扉が押し流されたのは仕方が無いとして、比較的体格の劣る
小型の鮫が邸内に入り込んでいたのは、予測の範囲内であるとは言っても、
矢張り気分の良い事ではなかった。
ミレーンは咄嗟にレイピアを振るったが、水圧のかかる中では切れの良い動きは
まず不可能である。
辛うじて、迫り来る巨大な顎をかわす事が出来たが、それが精一杯であった。
雷撃の呪文を行使しようかと考えたフェンであったが、水中では電気エネルギーが
分散してしまい、有効打を与えられないばかりか、ミレーンやオリビエにまで
ダメージが及んでしまう。
そこで、魔力の矢を複数本撃ち込む戦術に切り替え、即座に実行に移した。
この呪文は、魔術師の初歩から行使し得る魔法であり、軽視されがちではあるが、
魔力を鍛えた者が行使すれば、恐るべき破壊力を発揮する事が出来る。
フェンは鮫を殺す事は出来ずとも、この場から追い払う事ぐらいは可能だろうと
予測を立て、迷う事無く、魔力の矢による牽制打を放った。
案の定、魔力の矢の集中砲火を食らった鮫は、慌てて転進し、ミレーンとの
間合いを離してゆく。
「今のうちじゃぁ!」
フェンに言われずとも、ミレーンとオリビエは地下倉庫に至る下り階段へと、
水圧に苦しめられながら必死に足を動かした。

一方、ドレイクドールを駆り、単独でクレメンス邸に引き返してきたいた カッツェは、三階テラスからドレイクドール格納用広間へと上陸し、最初に ドレイクドールを起動した付近にまで、鈍い地鳴りのような足音を鳴らして 移動していった。 既に、アンダーテイカーのみならず、エイメカやミーニャの姿も無い。 しかし思わぬ人物の姿を発見する事になった。 同じく盗賊ギルドに所属する若き女性盗賊にして、将来の重鎮候補であろう、 ミシェル・アルカンタラであった。 『あのぉ、ミシェルお姉ちゃんですかぁ?』 スピーカーから聞こえてくるカッツェの声に、ミシェルは小首を傾げて、 「お姉ちゃんじゃないでしょ。先輩って呼びなさい」 『あ・・・失礼しましたぁ』 意外に体育会系な発想にも驚いたが、カッツェがドレイクドールに乗っている 事実をすぐに受け入れた彼女の胆力は更に驚嘆ものであった。 これはつまり、アンダーテイカーから全ての事情を聞いている事に他ならない。 格納用広間には、ドレイクドールは後一体だけが残されていた。 これに、ミシェルは搭乗しようとしている。 『ミシェルお・・・先輩は、これ使えるんですかぁ?』 「まぁね。少なくとも、あなた達よりは上手いつもりだけど」 言い終えるかどうかというタイミングで、ミシェルはドレイクドールの中に 背面部の搭乗口からするりとそのしなやかな体躯を滑り込ませるようにして 乗り込み、ものの数秒としないうちに起動した。 恐ろしく手馴れた様子で総金属製の巨体を立ち上がらせると、傍らの壁に 手を伸ばし、パルス機関砲とは異なる、大型の射撃用武装を掴んだ。 『あのぉ・・・それ、何ですか?』 カッツェは好奇心を抑える事も無く、素直に質問を口にした。 ドレイクドールの全長にも匹敵する程の長大な銃身を持つその射撃用武装は、 ミシェル機以外でも扱えるのかも知れなかったが、今のカッツェに、これを 使えと言われても、恐らく無理ではないか。 『中長距離支援用のパルスキャノンよ。これからハザード河下流の堰に行く  つもりなんだけど、あなたも来る?多分、イーサンもAHXに乗り換えて、  向かってる頃だと思うんだけどね。ドルフ閣下からの連絡が正しければ』 カッツェのドレイクドールのおよそ二倍ほどの重量感もあろうかという、 実に重々しい歩行音を響かせながら、ミシェル機はテラスから濁流の中へと 姿を消してしまった。 情報としては、カッツェも堰の話は聞いている。 そこが怪しいかも知れないという事も知ってはいたが、しかし大体の事情に 通じていそうなミシェルが、わざわざドレイクドールに搭乗して向かう、 という事は、その堰が今回の大災害に直接ないし間接的に関連しているという 可能性が極めて高い事を如実に物語っていると言って良い。 カッツェとしては、ちょっと様子を見に来ただけのつもりだったのだが、 ミシェルのこの行動を見てしまった以上は、それなりの判断を迫られている、 という事になるだろう。 (うぅ、どおしよう・・・) ディバース邸で見送りに出たクレットには、すぐに戻ると言ってある。 しかしよくよく考えれば、同じくすぐ戻ると言っていたイーサンも、既に その堰へ向かっているという。 一人で行くとなれば気も引けるが、イーサンが一緒ならば、何故か気分的に 楽であるというのは、否定の出来ないところであった。 さて、そのイーサンであるが。 彼に新しく割り振られたドレイクドールAHXは、それまで彼が搭乗していた AH323とは比較にならない程の高性能を備えていた。 もともとは、エステヴェス卿の為にロールアウトした機体なのだが、肝心の 本人が、対フレアー卿の為に身動きが取れない状況である為、搭乗者が居ない 状態が続いていたのだという。 そこへ、エステヴェス卿に劣らぬ程の資質を備えるイーサンが都合良く現れた。 管理責任者であるドルフとしては、AHXを使える者であれば、イーサンで あっても特に不都合は無い。 要は、目的達成の為に上手く機能してくれれば良いのである。 イーサンは、AH323とは圧倒的に異なる推進力に、まず驚かされた。 AHXの最大推進速度は、60ノットに達する。 最大駆動出力もAH323の二倍以上であるが、正確な数値は分からない。 更にパルス機関砲の有効射程や連射能力は、全て三倍以上の性能を誇っていた。 外見的なデザインも、どちらかと言えばずんぐりとした体格のAH323とは 異なり、AHXはシャープでスマートな外観である。 戦術さえ誤らなければ、地竜でさえも、単独で倒す事が出来るという程の 圧倒的な火力と接近戦能力を備えているらしい。 ただ、戦士イーサンとしては複雑な心境ではあった。 仮にこのAHXを駆使して恐るべき怪物を屠ったとしても、それは必ずしも、 イーサン個人の力で倒した訳ではない。 あくまでもドレイクドールの優秀な性能の賜物であり、そういう意味では、 まだまだ彼の実績は人間の域を飛びぬけないのである。

AHXは、ほとんど数分程度のうちに、ハザード河沿いにオランの街並みを 過ぎ去ってしまい、更にその数分後には、数キロ離れている筈の新造堰にまで 到達していた。 が、イーサンはその手前で急停止をかけ、前方付近をスキャンしてみた。 AHXの大容量メモリからイーサンの頭脳に流れ込んでくる情報と、スキャンの 結果から得られる情報を照合してみると、幾つかの差異が見受けられる。 (周りに何か居るようだな・・・) 更にスキャン情報を詳しく解析すると、特に体格の大きな巨大鮫が数匹の他に、 20メートルは越えようかという巨躯の生物が、新造堰付近に控えている事が 新たに判明した。 だがイーサンにとって何より重要だったのは、その新造堰から更に南の方には、 一切の水容量が検知されないという事であった。 つまり、新造堰を境にして、見えない巨大な壁が、この恐るべき水量を完全に 堰き止めているように見えるのである。 言ってしまえば、オランとその周辺区域は、姿無き巨大な水槽に押し込められ、 水没するまで汚れた水を流し込まれた格好になっているのである。 (さて、どうしたものか・・・) 来てみたは良いが、この現状を前にどう対処すれば良いのか。 イーサンはAHXの巨躯をハザード河沿いの岩場に隠し、思案を巡らせた。 と、そこへ、無線通信回路を通して、聞き覚えのある若い女性の声が、戦士の 鼓膜に飛び込んできた。 『イーサン、聞こえる?ミシェル・アルカンタラよ。支援に駆けつけたわ』 曰く、後十分程で追いつくとの事であった。 再びディバース邸に視線を戻す。 地下倉庫手前で、鮫の襲撃に遭遇した三人であったが、フェンの放った 魔力の矢によってこれを撃退し、無事に魔法の絨毯を見つけ出す事が出来た。 倉庫の扉に、魔力による施錠が施されている事も予想されたが、意外にも、 オリビエが持参した鍵であっさり開く事が出来た。 この水中では、フェンの魔力こそが最大の戦力である事が判明した以上、 彼の手を塞ぐ訳にはいかない。 そこで、ミレーンとオリビエが二人がかりで、丸められた魔法の絨毯を担ぎ、 最後尾をフェンが進むという形で三階へ向かう事になった。 幸い、復路には鮫の出現は無かった。 やがて全身ずぶ濡れになりながら三階まで階段を登り切ると、途端に三人は 極度の寒気に襲われ、顔面蒼白になり、唇の色もほとんど黒色に近いような 紫に変色してしまった。 待ち受けていた家人達に介抱されつつ、暖を取る為に、明々と火が灯された 暖炉前へと急ぎながら、手渡されたタオルで全身の水を拭き取る。 「外の鮫は、今のところ大人しいようね」 テラスから引き返してきたクレットの言葉に、凍えるような思いで暖炉に 当たっている三人は、ようやく苦笑を漏らすだけの余裕が生まれていた。 「中には居ましたよ」 「あら、そうなんだ」 ミレーンの言葉をクレットは半分聞き流しながら、広げられようとしている 魔法の絨毯に目を転じた。 オリビエが全ての操作法を、父エイテルの書斎から詳細に記された資料を 探し出してきている為、上位古代語を知っている者なら、誰でも簡単に 使いこなす事が出来るという事であった。


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