大司教
西マルディーニ区長ジャービス・マレン宅は、南北に伸びるマルディーニ大橋西側の大通りを、 自由人たちの街道から僅かに北へ外れたところの河べりに建っていた。 さほど大きいという訳でもなく、ごく普通の一軒家だが、河川の増水に耐えられるように、 基礎の部分が通常の家屋よりもしっかりしている。 石造りの重厚な建築方式は、東西マルディーニの河べりに建つどの家も同じ造りであるようだ。 フェンは紹介状も何も持たずに、いきなりマレン区長宅を訪れる事にした。 夕闇が迫りつつあるが、まだ夕食には早い時間帯である。 正門を抜けて狭い前庭を通り、本宅の木製玄関をノックすると、程なくして、30歳過ぎの 中肉中背という、いかにもありふれた一般人然の人間男性が応対に現れた。 「あのー、マレン区長さんはご在宅ですかね?」 「区長は私だが?」 意外にも、マレン区長自らが応対に現れたようである。 マルディーニの街は街道の要衝に位置する為、決して村程度の簡単な自治組織ではない。 しかしながら、都市ほどの規模も無い為、行政機関のあり方としては、むしろ大きな村に 近いものがあった。 マレン区長は自宅を職場にしており、その他の行政機関は大橋のたもとに建っている公民館に 全て集中している。 その公民館からマレン区長の自宅までは、歩いて数分程度の距離であった。 つまりこれといった用事が無ければ、マレン区長は大体自宅に居る事が多いらしい。 マレン区長は失礼にならない程度にフェンの容姿をざっと一瞥し、いかにも事務的な口調で、 通りの向こう側に見える公民館を指差しながら言う。 「さて、見覚えの無い顔だが、西マルディーニに滞在中の旅行者かな?旅行に必要な手続きや 申請等は、全て公民館の方で担当しているから、そちらへご足労願いたい」 「いや、私はマレン区長ご自身に用があってきたのです」 長身の若者の思いがけない申し出に、マレン区長は一瞬意外そうな表情を浮かべたが、すぐに 小首を傾げて、 「はて、どのようなご用件だろう?立ち話で済む程度かな?」 この問いには逆にフェンの方が困ってしまった。長くなるかどうかは、相手次第なのである。 ともあれ、こちらの用件を切り出さない事には話が進まない。 フェンは思い切って、ある組織が自由人たちの街道の封鎖の為に動いている旨を述べた。 これを聞いたマレン区長は、驚いた風も見せずに、玄関先で腕を組んだまま佇んでいる。 あれこれと脳裏で良からぬ予測を立てていたフェンにとっては、この反応は相手の考えが全く 読めない為、多少内心で焦りを感じてしまうところであった。 が、そう間を置かずして、マレン区長は一瞬だけ視線を天に向けてから、 「また突然だな。しかし事実かどうかはともかく、信ずるかどうかは私が決める事だ」 マレン区長の言う事も尤もな事だと、フェンは微かに頷き返した。 何の証拠も無しに、いきなり突飛も無い事を言い出して、しかもそれを信じろというのは、 幾らなんでも無茶であろう。 だが、フェンをただの狂言者として追い払わないところを見ると、マレン区長にも何かしら 思い当たる節があるのかも知れない。 「まぁ、仮に君の言う封鎖を目論む者が居ても居なくても、同じような結果に至りかねない 心配事というものはあるのだがね」 「ほぉ・・・それは一体?」 興味深げに聞き返すフェンに対し、マレン区長はお喋りが過ぎたかと自嘲気味な笑みを浮かべ、 小さくかぶりを振った。 「まぁ、別に隠す事でもないから教えて進ぜるが、このマルディーニ河の上流には川龍という 厄介な怪物が棲息していてね。そいつがいつ、ここへ破壊行為を働きにくるか分からんのだ」 マレン区長曰く、川龍ズレータの存在は決して噂でも伝説でもなく、実在しているのだという。 「そこの公民館の玄関ホールに、ズレータの脱皮した皮が展示してあるから、暇があれば、 是非見ていくと良い。二週間ほど前に上流から流れてきたものを、干して展示してあるんだ」 「そのズレータってのは、本物の龍なんですか?」 「いや・・・あれは龍族じゃないな。私の見立てでは、あれはヒドラだ」 思いがけない生物の名を聞き、フェンは一瞬ヒドラとは何ぞやというところで、頭の中が 真っ白になってしまった。 イーサンとウルメンは、連れ立って女郎宿を出て、近所の酒場へと足を運んだ。 ひとまずは、互いに旧交を温めようという事で、ウルメンがイーサンを誘ったのである。 断る理由も無い上、もしかするとウルメンが何か知っているかも知れないという希望を抱き、 イーサンはウルメンの誘いを受ける事にしたのである。 酒場と言うよりは、居酒屋と言った方が正しい。 狭い敷地の中に細長いカウンターとストゥールが並ぶ炉端焼の店で、マルディーニ河で取れた 魚介類を新鮮なうちにさばき、炭火で炙って提供するのが売りらしい。 「それにしても、ここで何してたんです?辺境警備の任を解かれた訳じゃないんでしょ?」 エールがなみなみと注がれたジョッキで乾杯してから、一息ついたところでイーサンが何気に 核心を突く問いを放った。 しかしウルメンは、それがどれほど重要な質問なのか意識せず、微妙な表情を作って一本の 髪も生えていないスキンヘッドをつるつるとさすりながら、 「いや、まぁ、そういう訳ではないんだが・・・ここだけの話だぞ」 最後の方は、周囲を憚るようにして、その強面をイーサンに更に近づけて声を潜ませている。 イーサンも思わず釣られてウルメンに顔を寄せ、相手の言葉をしっかり聞き取ろうとした。 「オラン崩壊後、騎士団の特殊部隊が様々な方面で情報収集に当たっているんだがな・・・ そのうちの一部隊が、マルディーニ河付近の遺跡にスプリットのアジトが隠されている、 という情報を掴んできたんだ」 そして辺境警備の任についていたウルメンに、まずは地元のマルディーニの街へと出向き、 細かな情勢を調べてくるようにとの命令が下った。 オラン行政府からの指示では、程なく援軍の部隊が到着する筈だったが、しかし待てども 待てども、それらしい部隊は一向に姿を現さず、もうかれこれ一週間ほど逗留しているという。 さすがにウルメンも苛々してきたらしく、こうして女郎宿で暇を潰していたところらしい。 「その遺跡って、もともと何の遺跡だったんですか?」 「うむ、俺も詳しくは分からんのだが、どうも新王国暦になってから建てられた寺院らしい。 築後せいぜい三百年程度だから、遺跡と呼べるかどうか。ただ気になるのは、その寺院に 祭られているのが、怪仏ソンジンという事だ」 |