大司教


フェンはほとんど迷う事なく、背負っていた古代語魔法詠唱用の両手杖を取り出し、
その杖を左手におさめ、残る右手で宙空に複雑な印を切りながら、上位古代語を
歌うように詠唱した。
やがて、彼の長身が河原の小石が多い地面から浮き上がり、人が早足で歩く程度の
速度で崖沿いに上昇してゆく。
その行く先はもちろん、ベンケイを連れ去った謎の影の跳躍逃走経路であった。
十数メートルもあろうかという断崖に沿って上昇してゆくという事は、川面に飛沫を
あげつつ接近してくる巨大な鎌首の群れからも逃れられるという事になるのだが、
しかし崖を完全に昇りきった先には、どのような脅威が待ち受けているのか分からない。
そこでフェンは、敢えて崖から少し距離を置いた宙空を上昇していく。
こうする事で、不意の待ち伏せに対してもある程度の間合いを取る事が出来、一方的に
叩かれる心配が無い。
やがてフェンは、断崖上に出た。
謎の影が飛び去った辺りは、断崖の途中、岩山の肌を舐めるように這っている岩道の
一部であり、幅はさほどに広くない。
無機質で殺風景な狭い岩道上には、いかなる気配も感じられなかった。
斜面沿いに視線を巡らせると、遥か北の方角に伸びる岩道の向こうを、大きな荷物を
背負ったような黒い影が走り去っていく姿が見える。
間違いなく、ベンケイを連れ去ろうとしている例の影だろう。
フェンは魔術師の杖を伸ばして、岩道の断崖付近に伸びている枯れ木に先を引っ掛け、
自身の丈の長い体躯を岩道上に引き寄せた。
でこぼことして足場の悪い石だらけの悪道に降り立ったフェンは、杖を弓に持ち替え、
斜面上のゆるやかなカーブの向こうに消えつつある黒い後姿に視線を据えて、静かに
足を速めて駆け出した。
(やれやれ、後衛専門の魔術師が山岳で追跡戦かいな。ギルドの同輩が聞いたら、
 さぞ呆れるこったろうな)

レイニーの目からすれば、フェンが一人だけ、まんまと巨大な化け物の接近から
逃れたような格好に映った。
が、そんな事をとやかく言っている場合ではなく、恐るべき数本の巨大な鎌首達は、
川面に柱のような水飛沫をあげつつ、確実に河原へと迫っているのである。
「レイニーお姉ちゃん!とにかく内地へ走りましょうよぉ!」
「旧寺院へ行くわよ!道知ってるから!」
半分涙目になって声を張り上げる少年盗賊のもとに、チャ・ザの高司祭が物凄い
勢いで駆け込んできたかと思うと、ほとんど足を止める事無く、岩山の間に伸びる
細い谷地の岩道へと進路を向けた。
当然カッツェも後についてくる。
河原から荒涼たる山間の谷道に入り、少し距離を走った辺りで、カッツェは僅かに
視線を振り向かせて、後方の気配を確認した。
月光の中で映える水飛沫から、数本の巨大な鎌首が河原上に這い出してきたように
見えたのだが、しかし今、二人が駆けている狭い谷間の岩道は、その巨大な鎌首が
二、三本も入れば身動き出来なくなる程度の幅しかない。
それを知ってか知らずか、川面から河岸に這い上がってきた圧倒的な質量の主は、
そこでぴたりと動きを止め、月光を弾き返す爬虫類独特の、爛々とした不気味な
紅い眼差しだけを、走り去る二人の冒険者の背中にじっと注いでいる。
何とか、恐るべき追っ手から逃れる事は出来た。
が、カッツェの脳裏では、再びあの巨大な影と対峙する瞬間が、そう遠くない
将来必ず訪れるだろうという嫌な予感が、強烈に渦巻いている。
もしあれが、例の川龍ズレータであるならば、その予感はほぼ現実として展開され、
少なくない被害を出す事になるかも知れない。

一方、旧寺院方面では、イーサンとウルメンがそれぞれ手分けして調査する事で
意見が一致していた。
イーサンは謎の気配を探るべく本堂付近に向かい、ウルメンはオラン騎士と思しき
首無しの直立不動集団がたむろする離れの方へと向かった。
正直言って、今のイーサンには隠密行動を成功させる自信は皆無である。
否、イーサンの野外行動における能力は決して低いものではない。しかしながら、
現在の彼の防御装備は、見つけてくれと言わんばかりの金属製鎧である。
とてもではないが、音を全く立てずに、隠密裏に陰から陰へ移動してゆくなど、
出来たものではない。
(・・・お金貯まったら、また革鎧買うかな・・・)
以前、野外行動用に所持していた彼の革鎧は、既に失われてしまっている。
イーサンは金属鎧特有のがちゃがちゃと鳴る移動音を高々と響かせながら、旧寺院の
本堂に向けて、少しずつ距離を詰めていった。
開け放たれた裏口の奥を塗り込める漆黒の闇の中で、再び何かの気配が動いた。
しかしイーサンの接近音に対しては、殊更に注意を向けていないようにも見える。
そのあまりの無防備ぶりに、逆に戦慄を覚えるほどであった。
何となく、イーサンは奇妙な感覚にとらわれた。
ある程度まで旧寺院本堂まで距離を縮めたところで、それまでの不気味な雰囲気とは
明らかに異なる、何とも言えない禍々しい空気が彼の周辺にねっとりとまとわりつく
感覚が、彼の全身を包み込んでいた。
どこかで感じた事のある、生臭さを伴うような悪意に満ちた空気。
それが何だったのか、必死に思い出そうとしていたイーサンの鼓膜を、不意に、
若い女の声が遠くから刺激した。
「イーサン!後ろ!」
レイニーの声だ。河原の調査から戻ってきたのだろうか。
そんな事を漠然と考えながら振り向いたイーサンの視界に、信じられないものの
姿が群れをなして飛び込んできた。

いつの間に出現していたのか、まるで分からなかった。 旧寺院本堂裏口に意識を集中していたせいかも知れない。 だがここは紛れも無く怪仏ソンジンを祭る旧寺院本堂と、その領内に当たる場所であった。 しかるに、何故この集団が、この場に現れたのか。 黒ずんで乾燥した表面を見せる干からびた皮膚のような体表は土臭い空気の中に、何故か 腐臭のような臭いまでが混ざっている。 落ち窪んだ眼孔の奥には、殺意を越える食欲が暗く渦巻いているようにも見えた。 食神チャバーカバの強大な精神が生み出す、不死属性の土人形の群れアンダーグール。 過去に何度か遭遇経験のあるイーサンは、その正体をほぼ瞬時に見抜く事が出来た。 しかしどう考えても腑に落ちない。 ここは食神と対立関係にある怪仏の旧寺院領内である筈だ。 なのに何故、食神の下僕たるアンダーグールが、これほど大量に群れをなして現れたのか。 イーサンは反射的に、トータルフィアーズを鞘から抜き放って、包囲網を形成する不死の 土人形達に向かって対峙した。 最初の攻撃の手は、しかし、予想外の方向から伸びてきた。 いきなり旧寺院本堂の裏口の中から、数体のアンダーグールが飛び出しきて、イーサンの 逞しい体躯に、枯れた手足を絡めるようにして襲いかかってきたのである。 どういう事なんだ、と叫ぶ間もなく、イーサンは旧寺院本堂の裏口内へと引き摺り込まれた。 若き戦士を引き倒す事に成功したアンダーグールの群れは、次々に汚れた歯を剥き出して、 イーサンのしなやかな筋肉にかぶりつこうとした。 しかし、金属製の鎧がそれを許さない。 引き倒された衝撃で一瞬脳震盪気味に意識が朦朧としたイーサンだったが、すぐに立ち上がり、 のしかかる土人形の群れを蹴散らしにかかった。 不運な事に、イーサンは立ち上がろうとした際に足を踏み外した。 どうやらそこに、地下へ伸びる階段があったらしい。 数体のアンダーグールともども、イーサンは中地階の踊り場へと転がり落ちた。 「くそっ!」 決して余裕があった訳ではなかったが、イーサンは周囲のアンダーグール達よりも 数秒早く立ち上がり、階上に視線を向けた。 漆黒の闇に覆われている為、はっきりとした数を読み取る事は出来なかったのだが、しかし 外へ出る裏口辺りの通路は夥しい数のアンダーグールに占拠されている。 この時初めて、イーサンはおかしな点に気づいた。 暗い筈の地階下方が、ほのかに明るいのである。 燭台か何かに火を灯した照明が、地階全体に広がっているようにすら思われた。 イーサンと一緒に中地階の踊り場へ転げ落ちてきたアンダーグール数体が、恐ろしい 呻き声を漏らしながら、ぎこちない動作で立ち上がった。 そこへトータルフィアーズの鋭い一閃が煌き、イーサンを包囲する土人形達は、 元の土塊へと姿を変えた。 夜目が利かない上に、大量のアンダーグールが待ち受ける階上へと駆け上がり、屋外への 脱出を図るべきか。 或いは、九死に一生を得る為に地下へと走り、脱出の活路を見出すべきか。 いずれの選択が、より生存率が高いのか、今の段階では分からない。 しかし一つ確実に言える事は、今この場に留まれば、階上からアンダーグールが一斉に 押し寄せ、イーサンの若い肉体を一片の血肉なるまで食い散らすという事であろう。 「イーサン!無事か!」 遥か遠くから、ウルメンの野太い声が張り上げる叫びが聞こえる。 「僕は大丈夫!生きてますよ!」 と大声で応じてはみたものの、このまま生還出来るかどうかは、今のところあまり 自信が無かった。 イーサンは、トータルフィアーズを構え直した。 階上から、アンダーグールの群れがゆったりとした足取りで、地下への階段を下りてくる。 ベンケイを担いだ影が、旧寺院領内の離れの中へと消えていくところを確認してから、 フェンはすぐ近くで大声を張り上げているウルメンに声をかけた。 「こりゃあ、また偶然ですな」 「呑気な事を言っている場合ではないぞ」 既にレイニー、カッツェと合流していたウルメンは、カッツェとの再会を喜ぶ間もなく、 この異常事態にどう対処すべきかと必死に思案をめぐらせていた。 丁度ウルメンが、離れの玄関前に並ぶ首無しオラン騎士の集団へ近づく直前に、レイニーと カッツェが合流してきたのである。 先にレイニーが、河原の淀みで生首が放置されていたところから、認識票を持ち出してきた。 それをウルメンに手渡して確認を依頼したところ、矢張り、あの首無しオラン騎士達は、 ウルメンの増援に駆けつける筈だったオラン騎士の小部隊だという事が判明したのである。 一体、あの騎士達に何が起きたのか、まるで分からない。 しかしベンケイを連れ去った影が、あの離れの中へ飛び込んだところを見ると、恐らくは、 怪仏に関係する敵ではないかと思われる。 「ねぇ、どうすんの?」 背負っていた長弓を構えて矢をつがえようとしているレイニーは、不安げな表情を浮かべて、 フェンとウルメンに意見を求めた。 旧寺院本堂屋外に広がっていたアンダーグールの群れの一部が、ウルメンと三人の冒険者に 気づいた様子で、ゆったりした足取りで接近を開始したのである。 更に、離れの前に整列していた首無しオラン騎士の群れも、動き始めた。 こちらも、一部はウルメン達の方へ、そして残りはアンダーグールの群れに対して、 それぞれ抜刀して行動を開始したのであった。 この全く思いがけない事態に、さすがのウルメンも言葉を失ってしまっている。 一体この場で、何が起きているのであろう。 だが少なくとも、穏便に事が運びそうな雰囲気ではない。 河原へ戻ればあの化け物が待ち受け、ここに留まればアンダーグールと首無し騎士の群れが 彼らを包囲し始めている。


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