大司教
イーサンは慎重な足取りで、謎の人物ルオル・バルディの横臥する地点に向けて移動する。 摺り足のような歩調ではあったが、極力音を立てないように努めたのは、この広大な地下の 墓地のどこからアンダーグールが現れるのか、分かったものではないからだった。 近づくにつれて、バルディはひゅーひゅーと喉の奥で鳴る奇妙な呼吸音を漏らしながらも、 しかしはっきりした意思が宿る不気味な眼光を、燭台が照らし出すぼんやりとした空間の 中で輝かせていた。 「あなたも、スプリットの兵士なのですか?」 まだ相手の正体を知らないイーサンは、唇が乾くのを感じながら、ややかすれ気味の声で 静かに問いかけた。 対するバルディはと言うと、半乾きの血溜まりの中で、顔面の肉も浅く食い荒らされて しまっている為か、表情を動かす筋肉も失われてしまっている。 その為、彼がイーサンの言葉に対し、どのような色の表情を浮かべたのか分からない。 しかしバルディが応えの為に放った声音には、どこか呆れた響きが篭もっている。 「なんだ、私を知らずにここまで来たのか?」 渋い中年の呆れ気味の声の中には、何故か自尊心を傷つけられたような不快な感情も一緒に 込められているような気がしたのだが、イーサンの考えすぎだろうか。 「スプリットにその人ありとまで言われ、更には怪仏の大司教でもあるこの私を、君は 知らぬという。何とも屈辱的な話ではないか」 相手があまりにも堂々と名乗った為、イーサンは一瞬呆気に取られ、どう反応して良いか 分からなくなってしまったが、数秒後には、バルディの言葉の内容をしっかり把握し、 鞘に収めかかっていたトータルフィアーズを再度抜き放つと、その切っ先をかび臭く冷たい 石床に落として軽く身構えた。 当初イーサンは相手が何者であろうと、これだけの重傷を負っている以上は、応急手当を 施してやるべきかと考えていた。 しかしバルディがスプリットの一員、それも怪仏の大司教を名乗ったとなると、話は全く 変わってくる。 一つだけ、イーサンには分からない事があった。 何故バルディはこうもあっさりと、自らの正体を語ったのであろうか。 実際のところ、イーサンはまだ名乗りをあげておらず、従って、バルディの側としても、 イーサンが敵かどうか分からない筈である。 にも関わらず、瀕死の状態のバルディが自ら正体を打ち明けたという事は、何らかの 計算があっての事であろうか。 そんなイーサンの疑問を察したのだろうか、バルディは今度は、かすれた笑い声をあげた。 「不思議に思っている事だろうな。何故この私が、見ず知らずの、どこの馬の骨とも 知れぬ輩に、こうも簡単に自らの正体を明かしたのか、とな。それも無理からぬ事だ」 「では、お聞きします。何故、僕が何者かを確認もせずに、自分の正体を明かしたので?」 「・・・それはな、こういう事さ」 ほとんど死体同然のバルディの言葉を、イーサンは虚ろな意識の中でぼんやりと聞いた。 その直後、イーサンの意識は混濁し、激しい目眩に襲われた。 数秒後に意識を取り戻した時には、イーサンは冷たい石床の上で仰臥していた。 が、何かおかしい。 全身の感覚が麻痺しており、そして体中を奇妙な鈍痛が襲っている。 どういう訳か、声が全く出せなかった。 喉の辺りで奇妙な具合の空虚感を伴っており、それが原因で、発声出来ないようだった。 薄暗い石の天井が、遥かな高さに望む事が出来る。 そして、その天井を望む視界の中に、イーサンは信じられないものを見た。 仰向けに倒れているイーサンを、『傍らに佇むイーサンが満足げに覗き込んでいた』 「!」 「・・・驚いているのか。しかしその顔面では、驚いた顔も出来んな」 混乱するイーサンの意識を、傍らに佇む別のイーサンは、声そのものはイーサンでも、 バルディ本人の口調で、半ば哀れむような調子を響かせつつ、そのように評した。 「矢張りご本尊は、私を見捨ててはいなかった。これほど優秀な贄を用意してくれた。 まだまだこのバルディに、大司教として精進せよという思し召しであろう」 イーサンの声で、イーサンの顔で、バルディはそう言った。 そして全身を食い散らかされた無残な体躯の中で、イーサンの意思は懸命にもがく。 だが、肉体と精神を取り替えられてしまったイーサンには、それは無駄な抵抗だった。 「君がこの私を、ほんの僅かでも助けようという意志を持った事に、感謝するよ」 イーサン=バルディは、トータルフィアーズを鞘に収めながら、やや皮肉っぽい笑みを 浮かべて言う。 何が何だか分からないイーサンに、イーサン=バルディは諭すように言葉を続けた。 「言霊の技術を更に昇華させるとな、相手の意志そのものに対して言霊を仕掛ける事が 可能になるのだよ。君は私の無残な姿に対し、応急手当を施してやりたいという 意志を持っていたが、その意志に私は言霊をかけて、肉体と精神を入れ替えるという 呪禁道の奥義を発動させたのだ。全くもって、君には感謝の念が絶えない」 バルディの肉体の中で、イーサンは怒りの咆哮をあげた。 しかし声が声にならない為、僅かにひゅうひゅうと呼吸音が激しくなるだけである。 イーサン=バルディは、半乾きの血溜まりに仰臥するかつての自身の肉体の傍らに しゃがみ込むと、トータルフィアーズを鞘から抜いて、刀身の中ほどを、倒れている 肉体の喉元に軽く添えた。 「これが私の君に対する感謝だ。その肉体ではさぞ辛かろう。故に、この私が一思いに とどめを刺して進ぜる。さらばだ」 トータルフィアーズの刃を軽く滑らせて、イーサンの精神が宿っている傷だらけの 肉体の喉を切り裂いた。 更に、半乾きだった血溜まりを紅く濡らし、その数秒後には、イーサンの精神が宿る 肉体は生物としての機能を停止した。 イーサン=バルディはゆっくりと立ち上がり、暗い石天井を見上げた。 「サヘエめ。私の最期を見届けずに大司教の座を奪うなど、笑止千万。この私が直接 引導を渡してやるぞ」 |