結納
スコールの気配を察してクリスが慌てて跳ね起きた直後、傾斜下の茂みに潜んでいた 両家の令嬢と冒険者達が一斉に移動してきて、ウォージー遺跡の側面の壁に張り付いた。 石組の土台部分に上がれば、スコールによって地面が水浸しになったとしても、さほど 悪い影響を受ける事が無い。 丁度、正面入り口からの死角になる辺りでもあり、遺跡の間近で身を潜めるには、格好の 場所であると言って良い。 クリスはまさしく、ほうほうのていで、という表現がぴたりと当てはまるぐらいの、実に 情けない足取りで彼らの元へとふらふら走ってゆき、同じ石組の土台部分に乗った。 そのクリスの接近を待ちかねたかのように、フィルが芸術の神に祈りの言葉を捧げて、 治癒の法力を発動させた。 するとどうであろう。 ほとんど人相が変わり果てる程に大きく腫れていたクリスの顔面は見る見るうちに治癒し、 全身を襲っていた激痛もほとんど消えてなくなった。 僅かに掠り傷と痣が残る程度にまで回復したクリスは、フィルに礼を述べる事も忘れ、 一人ではしゃいでいた。 更に、アーベイがマッティングリー家からクリスの装備一式を持ち出してきていた為、 これでようやく、盗賊としての準備が整える事が出来た訳である。 何から何まで他人任せで人に頼りっきりなのだが、借りを作ったという意識は彼の心に 微塵にも湧く筈が無く、ただ無邪気に喜んでいるだけであった。 これにはフィルもアーベイも苦笑せざるを得ない。 マディなどは、人にさんざん世話をかけさせておいて、と内心憤慨していたのだが、 クリスの強みはそういう手間隙を他人に強いても、当人達にはあまり気にさせないという 子供っぽさがあるところであった。 言ってしまえば、体格は一人前の成人男性だが、まだまだ世話のかかるお子様、という 認識を持たれてしまっているのである。 「よぉーし。これでクリストファーさんも完璧だぜ。一気に突っ込もうじゃねぇか」 長剣を納めた鞘を腰に吊るしながらを腕を撫すクリスに、しかしシモンとライトが、 血気に逸るクリスをなだめるように制して、 「敵はただの野盗団ではありません。少なくとも、古代語魔法の使い手が居ます。迂闊に 飛び込んでは、こちらが逆に危機を迎える事になるでしょう」 「対魔術師はシモンさんにお任せします。私は、もし乱戦にならなければ歌での支援を 試みますが、不可能なら古代語魔法での支援に切り替えます」 と、それぞれの役割を明瞭にしつつ、基本戦術を全員に説明した。 いずれも異議は無い。 ただ、ちょっとした悶着があった。 前衛にはクリスとアーベイの他にペネロペとルシアンが立つと主張したのに対し、戦士の マディが自身のプライドをかけて、自らが矛になると強く言い張ったのだ。 結局、軽い論争の末にルシアンが中衛に下がる事を決断し、マディが前に出る事となった。 このやりとりを複雑な思いで眺めていたのが、フィルとライトである。 二人とも本来ならペネロペ嬢を守るべき立場なのだが、接近戦能力の特性上、ペネロペに 前衛を任せざるを得ないのである。 逆に自分達が守られる格好になるのは、実に見栄えの悪い展開ではあるが、戦術上では その方がより確実である以上、ペネロペの形の良いヒップラインを拝む位置に下がらざるを 得ないというのが実情であった。 戦術説明が終わると今度はクリスからの報告に入る。 彼は盗賊修行の為に、枯れた遺跡であるこのウォージー遺跡に何度か足を運んだ経験があり、 内部構造を知り尽くしている。 更に、先程単身突入を試みた際に、少なくとも一階の出入り口付近の敵の布陣は、ざっと 目を通して大体の人数を把握している。 集団リンチに遭いながらも、そういうところの情報はきっちり押さえている辺りは、矢張り 彼も盗賊の端くれといったところか。 ライトが背負い袋からランタンを取り出して火を灯しているその傍らで、クリスが今更 思い出したように、例の謎の巨漢が、遺跡の壁に張り付き、屋根上へと消えていった事を 一同に報告した。 その外観から、フィル、ライト、そしてペネロペの三人は、同日オロウォカンディ邸を 訪れたあの謎の強面の巨漢であるとすぐに察した。 キルチネルの名を声高に叫んでいたあの人物がここへ来ているという事は、何かしら例の 呪いに関する行動を起こしている可能性がある。 それがどのような結果を引き起こすか分からない以上、用心に用心を重ねねばならない。 「よし、行こうぜぇ。ついてきな」 クリスが顎をしゃくって一同に指示を出すと、一時的にチームを組む事になった他の面々は 一度互いに顔を見合わせ、誰ともなく、苦笑が漏れてしまった。 現在、彼らが張り付いている側壁の土台部分から、大きく開け放たれた入り口までは僅か 数メートル程度の距離でしかなく、ほんの数歩で辿り着く事が出来る。 幸い強烈な雨脚で降り出したスコールのおかげで、彼らの足音と気配は完全に掻き消され、 入り口脇の両壁に張り付いた際には、内部の野盗団には気づかれていない様子だった。 クリス、アーベイ、マディの三人がそっと覗き込んでみると、雨に濡れるのを嫌がった 数名の見張りと思しき野盗の男達が、玄関ホールの少し奥まった位置にまで下がり、低い 声で雑談を交わしているところであった。 前衛組は互いに視線で合図を送り、クリスが手近の小石を拾い上げ、玄関ホール奥の 石段に投げつけた。 野盗の男達の視線が、そちらに釘付けになった瞬間、クリス、アーベイ、マディの三人が 己の体躯を弾丸に変えて屋内に突入し、更にその後にペネロペとルシアンが続く。 フィル、ライト、シモンは万一に備えてそれぞれの術の態勢に入っていたが、しかし結局 無用に終わった。 クリスの接近戦能力は並の駆け出し冒険者に毛の生えた程度であったが、アーベイと、 そして意外にも小柄な少女のマディが発揮した瞬発力には、目を見張るものがあった。 尤も、マディの場合は非力さを補う高品質装備が、彼女の戦闘力を高めているのだが。 |