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洞窟前の開けた空間(以後、洞窟前広場と呼ぶ)に、キャロウェイが用意した焚き火がオレンジ色の
輝きを放って周囲の闇を押しのけている。
その焚き火を中心にして、キャロウェイと水鏡亭の客人達が、車座になってそれぞれの席を陣取り、
キャロウェイが用意した即席の晩餐にありついていた。
さすがに冒険者の店を経営する人物らしく、準備にはぬかりが無い上に、もしもの時の事を考えてか、
この場の全員にいきわたる分の食糧まで用意してきていた。
保存食などではなく、その場で食材をきっちり調理したものであった為、キャロウェイを追ってきた
冒険者達は、久々にまともな食事にありついた事になる。
全員、相当疲労が蓄積されていた為、食事を終えると、ほとんど間も無く眠りに就いた。
但し見張りを立てる事は忘れない。
この面々の中で唯一、肉体的にも精神的にも余裕があるキャロウェイが、宿の主人としての責任を
担ってか、夜半までの見張りを自ら任じた。
冒険者達はキャロウェイの好意に甘える事しか出来ず、それぞれが早々に大きな鼾を立てて寝入った。
が、一人だけ例外が居た。リグである。
グラスランナーの盗賊青年は(見た目は少年であるが)、キャロウェイに一言二言、言い添えておく
必要があると判断し、他の面々が寝入るのを待った。
やがて、小一時間が過ぎた頃、リグは夜具代わりのマントを羽織ったまま、焚き火の際で宙空をじっと
見据えている中年の巨躯の傍らへとにじり寄った。
「どうしたのかね?君も相当疲れているだろうに・・・早く寝なさい」
「いや、その、どうしても言っておかなきゃいけない事があって」
基本的に能天気で、何事に対しても大雑把である事が種としての特性であるグラスランナーにあって、
几帳面なまでに筋を通す性格のリグは、際立って特異な存在と言って良い。
彼はまず、自分達の未熟さがモイセスに要らぬ借りを作った挙句、ガルシアパーラが言わずもの事まで
全て話し尽くしてしまった事を詫びた。
しかしただ詫びるだけではなく、かねがね不審に思っていた事も口にした。
「せめて、置手紙ぐらい残してって欲しかったなぁ。そうすりゃ、こんな苦労しなかったのに」
「いや・・・簡単にだが、そこのガルシアパーラにしばらく不在になる旨を言っておいた筈なんだが」
思わずリグは、絶句したまま表情を強張らせた。
対するキャロウェイは、やれやれと小さく溜息を漏らしている。

後でガルシアパーラを問いただしてみたところ、彼は単純に、キャロウェイからの不在の旨を告げる
言葉を聞き流していただけの事らしい。
どうやらその時、ガルシアパーラは街で評判の美人をどう口説こうかと必死に思案を巡らせていた、
という事で、とても人の話を聞く余裕は無かったらしい。
そして、キャロウェイから何かを言われた事をも、完全に忘れてしまっていたようである。
こういった辺りが、冒険者ガルシアパーラの三流たる所以であろう。
キャロウェイも実際のところ、モイセス達の前で全ての経緯を喋り倒したガルシアパーラの説明内容が、
いささか腑に落ちなかった部分があったという。
ガルシアパーラがちゃんとキャロウェイの言葉を覚えておけば、そもそも彼らがここまで追いかけてくる
必要は無い筈で、にもかかわらず、何も知らされていなかったかのような説明に終始する彼の言葉に、
相当疑問を感じつつも、敢えて口を挟まなかったのは、モイセス達に、水鏡亭宿泊者達の落ち度を決して
知られたくないというキャロウェイの意思が働いたからに他ならなかった。
尤も、ガルシアパーラを信じた自分が悪い、とキャロウェイもしきりに反省していたのだが。
結局のところ、キャロウェイも、そして他の冒険者達も、ことごとくがガルシアパーラ一人にすっかり
振り回されている格好になっていた。
下手をすると、素人冒険者のクリスタナ達以上に始末の悪い男なのかも知れない。
夜が更け、時間が巡った。
翌朝、洞窟前広場の面々は多少の疲労は残ってはいたものの、大方回復し、目を覚ました。
仮眠を取った程度のキャロウェイが一番早く目を覚ましていたらしく、全員の分の朝食を既に用意して
待っていたのは、さすがと言う他無い。
季節が季節だけに、そしてまた山岳森林という土地柄、朝の冷え込みは凄まじいものがある。
もし焚き火を絶やしてしまっていたら、この場の全員が凍死していてもおかしくなかっただろう。
「雪が近いかな」
樹々の間から覗く灰色の曇り空を仰ぎ見て、リグはふと、天気が荒れそうな予感を覚えた。
「ランタンでは、炎の精霊を使役すると面倒な事になるだろう。松明を用意した方が良いな」
キャロウェイの指示に従って、この面々の中では唯一接近戦の不得手なルーシャオが、松明照明係を
担当する事になった。
「よし、じゃあ行くぜ。皆、俺のリーダーシップに従えば何の問題も無いぞ!」
一人気合十分なガルシアパーラに、リグの冷たい軽蔑の眼差しが突き刺さる。

洞窟内は、外気程の寒さは無かったが、足元がところどころ凍結している為、歩行に難があった。
遺跡部の入り口までは、天然の岩肌が剥き出しになっている洞窟である。
鉱石知識に強い関心を持つルーシャオは、もうそれだけで妙に浮ついた気分になった。
「おい、気を引き締めろ。緩んだ気分で何か事故を起こされては迷惑だ」
フォールスに厳しい一言で釘を刺され、さすがにルーシャオも長身を子供のように揺らして、
洞窟内を無用にきょろきょろと見回すのだけはやめたが、それでもどこか気分が高揚してくるのは、
何とも抑えようが無かった。
レイ・クラウザーから洞窟内の見取り図を貰っていたゴルデンが、ルーシャオの掲げる松明の光を
頼りにその図面を確認していたが、かなり良い加減に作成してあった代物らしく、時折現れる枝道は
ほとんど全て省略されていた。
「あと、どれぐらいですか!?」
「そうじゃな、もうあと十分程度で遺跡の入り口に着くかのぅ!」
ルーシャオとゴルデンのそんなやりとりを後方に聞きながら、先頭を行くリグは、松明の照明範囲の
限界ぎりぎりとなる遥か前方に、明らかに人工によるものと思われる直線的な岩質の構造物を見た。
この洞窟内は、足を踏み入れた直後から、空気の流入による轟音が凄まじく、小声で話しかけても
相手の耳に届かない事がしばしばだったのだが、この辺までくると、相当な大音量となり、普通に
会話をするにも、大声で怒鳴らなければならなかった。
「なんで、こんなに音が凄いんですか!?」
テオは率直に、疑問をキャロウェイにぶつけてみた。
洞窟内を行く自分達の体には、さほどに風が当たっている訳ではない。
にも関わらず、これだけの大音量で空気の流入音が洞窟内に木霊しているというのはどういう事か。
どこか別のところで、相当な量の空気が雪崩のように流れ込んでいるとしか思えない。
「多分、遺跡の内部で颪がまともに吹きつけて空気が侵入してくる経路があるんだろう!」
キャロウェイにも、その程度の推測を述べるぐらいしか出来ない。
実際、この経験豊富な元冒険者も、これほどの大音量に至るような空気の流入など、今までまるで
見た事も聞いた事も無いという事だった。
「という事は、山頂方面に向かう抜け道が、遺跡の中にあるって事でしょうか!?」
テオの怒鳴り声に、さすがに大声で応じるのが億劫になってきたのか、キャロウェイはむっつりと
頷くのみで答えた。
しかしそうなると、遺跡内では強烈な突風に吹き飛ばされないよう警戒する必要があるだろう。

やがて、遺跡の入り口に到達した。
自然の岩肌が剥き出しになっていたそれまでの洞窟とは打って変わって、明らかに人の手による
地下建築が、そこに広がっていた。
松明の光が届く範囲内だけを見渡してみても、石造りの迷路のような通路が奥の方に伸びている。
かび臭い乾いた空気がひんやりと遺跡内を冷やしており、土埃が堆積する石畳の床には、真新しい
足跡が幾つか残されている。
恐らく、先行したモイセス達のものに相違なかろう。
しかし困ったのは、耳をつんざくばかりの大音量であった。
ここまで来ると、空気の流入音は、肉声による会話はほとんど不可能な程の大音量に達しており、
一同は身振り手振りによってお互いの意思表示を確認するしか出来ない。
或いは、相手の耳元に自分の唇を密着させて怒鳴るかのいずれかであった。
しかしこの状況が続けば鼓膜が痛み、ともすれば、耳鳴りと頭痛に悩まされる可能性も極めて高い。
つまり、この時点で信用出来る警戒手段は視覚のみという事になる。
もし何者かが闇に紛れて背後から接近してきても、少々の足音なら完全に掻き消されてしまう為、
ほぼ完全な不意打ちを完成させる事が出来るだろう。
相変わらず、松明の炎は微かに揺れる程度で、直接周辺に強風が発生している訳ではない。
まずはこの大音量を生み出す空気の流入経路を突き止めるのが先決だと判断し、フォールスは、
口の中でぶつぶつと精霊に語りかけ始めた。
もちろん言うまでも無い事だが、情報を引き出す相手は風の精霊である。
フォールスは、しばらくトランス状態に陥ったかのような、能面の如き無表情さで闇に視線を据え、
身じろぎ一つ見せずにじっと佇んでいたのだが、やがて彼にしては珍しく、意外そうな、或いは
多少の驚きの念を交えた表情で、一同に振り返った。
キャロウェイが羊皮紙とペンを持ち、素早くフォールスの傍らに駆け寄って、その大きな体躯を
傾けて耳を寄せてきた。
いささか戸惑い気味の表情のまま、フォールスはキャロウェイの耳に向かって怒鳴った。
その内容を、キャロウェイは意外な程の達筆を手早く走らせて、羊皮紙に書き留めてゆく。
残る五人は背筋を伸ばして、羊皮紙に書き留められるフォールスの言葉の内容を注視した。
なるほど、フォールスが驚いたのも無理はない。
遺跡内を満たしているこの大音量の正体は、空気の流入音などではなかったのである。

フォールスの報告によれば、この遺跡内には風の精霊はほとんど全くと言って良い程に存在せず、
つまり、空気の流入などは物理的に有り得ないというのである。
逆にもっと驚くべき事実が浮上した。
遺跡内を満たすこの大轟音に対し、フォールスは精霊感知を試みたところ、なんと、轟音自体に、
極めて強力な負の精霊力を感じたというのである。
これが一体、どういう意味を持つのかは、さすがのフォールスもよく分からない。
少なくともこの轟音が、今すぐに彼らの肉体を蝕んだり、どうこうするような直接的な効果は、
現時点では確認されていない。
しかし、この先何が起きるかは、まるで予測不能ではあった。
「いずれにしても、ここで立ち止まっていても解決しない。まずは進もう」
という意味の文章を、キャロウェイは羊皮紙上でペンを走らせ、全員に指し示した。
確かに彼の言う通りであり、クリスタナ達を探す為にも、この大轟音に警戒しながらではあるが、
遺跡の奥へと歩を進めていく必要があるだろう。
一同に、異存は無い。
今度は場所が場所だけに、先頭を行くリグの直後に、屈強な戦士であるキャロウェイとテオが続き、
最後尾をゴルデンとガルシアパーラが固める布陣を取った。
不幸中の幸いで、レイ・クラウザーがゴルデンに譲った見取り図は、遺跡部に関しては正確だった。
尤も、入り口付近を中心に描いてある為、あまり奥の方までは期待出来ないのだが。
やがて、一同は見取り図には描かれていない部分に足を踏み込んだ。
遺跡自体はほとんど一本道で、枝分かれしている箇所は見受けられない。
途中、幾つかの小部屋らしきものを発見したが、そのいずれもが、錆びて腐食された鉄格子の痕跡が
残されている、一種の牢獄のようなものである事が分かっただけで、さほどの情報は見られなかった。
ただ、負の精霊力は各小部屋の内部に色濃く残されているという。
古代王国期から続く怨念か、或いは生への執着か。
精霊感知を実施するフォールスにとっては、あまり気分の良い波動とは言えなかった。
そして、フォールスが負の精霊力の強弱を報告するたびに、一同は松明の光が届かない闇の向こうに、
不気味な気配や視線を感じずには居られなかった。
それが果たして、気の迷いによる錯覚なのか、或いは生命の直感が捕捉したものなのかは分からない。
とにかく全員一致する意見として、気味の悪い遺跡であるという事だけは間違い無さそうであった。
相変わらず遺跡内に充満する謎の大轟音が、不意に途切れたのは、一本道と思われていた通路が、
円形の小部屋に行き着いたところであった。

その円形の小部屋からは、更に奥へと向かう幾つかの通路が、闇を飲み込むようにぽっかりと口を
開けているのだが、しかし彼らにとって何より不気味だったのは、あの大轟音が、何故いきなり、
途切れてしまったのか、という事であった。
「ねぇ、見てよ・・・足跡が、なくなってる」
それまで、モイセス達のものと思わしき足跡が、この円形の小部屋の手前まで続いていたのだが、
室内に入るなり、その全てが消失している。
否、もっと正確に表現するならば、それまで石畳の床に堆積していた土埃が、この円形の小部屋から
先には一切見られないのである。
土埃が堆積していない以上、足跡も残らない。
「フォールス、負の精霊力は?」
野性的な直感力で、事態の急展開を予感したテオが、背負っていた六角棍を手に取り、臨戦態勢に
入りながら鋭く聞いた。
「更に強くなっているが、さっきまでとは明らかに違う。個体に凝縮した形で迫っているぞ」
同様に、長剣の柄に手を沿え、抜刀態勢に入っているフォールスが、今度は自信に満ちた口調で
テオに応じ、更に、敵対的な感情に近い波動も感じる、と付け加えた。
丸一日以上前、ゴブリンの大集団と最初の戦闘を経験している事もあってか、一同には必要以上に
緊張した様子は無かった。
が、今ここに迫りつつある気配は、負の精霊力で満ちているという。
恐らくキャロウェイやガルシアパーラ以外の五人には、初めて遭遇する型の相手となるだろう。
油断は禁物であった。
どこかで、音がしたような気がした。
大きな肉質の何かを引きずるような、規則的な音である。
やがてそれが、何者かの足音である事が理解されるまで、さほどの時間を要しなかった。
「おい、あれを見てみぃ」
ゴルデンが、大戦斧を担いだ姿勢のままで、ある一点を指差しつつ指摘した。
奥に向かう通路の闇の中に、ドワーフ特有の視界で早くからその存在に気づいていたらしい。
松明の照明の向こうから、白っぽい大きな影が姿を現した。
全員が、その影に見覚えがあった。

モイセスの仲間の一人、最年少の巨漢ネッロ・ゾルジによく似ていた。
服装も、着込んでいる革鎧も、記憶にある彼の装備に酷似していると言って良い。
しかし必ずしも、ネッロ本人であるという保証は無い。
まず何より尋常ではないのは、その下半身と、ぎこちない足取りであった。
素足なのだが、異様なまでに白い肌のところどころが真紅にただれており、濁った体液が粘液の様に
澱んでいるのである。
足の爪は全部剥がれており、黄緑色の膿のようなものが、爪先に付着していた。
そして最も異常なのは、足の裏を冷たい石床に引きずるようにして、摺り足で進んできているのだ。
足の裏の皮は剥がれ落ちているのか、赤黒い血の跡が二本の線路を描いている。
だが、本人にはまるで痛みの感覚が欠如しているのか、全く意に介さず、ずるりずるりと鈍い音を
立てながら、ゆっくりと円形の小部屋へと向かってきていた。
やがて、ネッロと思しき巨漢は松明の炎が煌々と照らし出す円形の小部屋内へと足を踏み入れた。
頭をほぼ水平の位置にまで倒して俯いている為、表情はよく分からない。
「なぁ、あんた、その足はどうしたんじゃい?」
内心嫌な予感を覚えつつも、ゴルデンは平静を装って聞いた。
大戦斧を構える両手に、思わず力が入る。
それまでの、のろのろとした動きには似つかわしくない程の素早さで、ネッロは面を上げた。
面影は残っているが、ネッロ本人のそれとは到底思えない程に、その容貌は変わり果てていた。
濁った白さでぶくぶくに膨れ上がった顔面は、そこかしこが皮が剥がれて、素足と同じように紅い
体液が粘着物のように張り付いている。
両目は異様に落ち窪み、眼球には瞳が無く、白濁の膜が張っているようにも見える。
上下の唇は不自然なまでにめくれ上がり、血まみれの歯茎と、歪んだ乱杭歯が曝け出されていた。
まるで、伝説に聞かれる地獄の亡者そのものであった。
いや、フォールスの精霊感知が負の精霊力を捕捉している以上、最早亡者そのものと言っても
良いのかも知れない。
「こいつ・・・不死の魔物と成り果てたか!」
キャロウェイがいち早く、愛用の両手剣を構えて、ネッロと思しきもの、或いは、かつては恐らく
ネッロだったものと対峙した。
泥水の様な赤黒い血溜まりを吐き散らしつつ、ネッロが大きな口を開けて獣のような咆哮を放った。

まずガルシアパーラが、ネッロの咆哮に怯えた。
無様な程に狼狽して尻餅をつき、長剣を抜く事も忘れて、全身を小刻みに震わせている。
「こいつ、吸血鬼ではない・・・!」
他の面々も戦慄に緊張している中、キャロウェイだけは渋い表情のまま、両手剣の切っ先で守りを
固めた姿勢でネッロとの間合いを測っている。
「い、一体何なんですか、これ・・・!?」
ルーシャオは狼狽しながらも、魔術師としての探究心が勝ったらしい。
その青年魔術師に対し、しかしキャロウェイは、憮然とした調子で僅かにかぶりを振った。
「分からん。不死の魔物である事は間違い無さそうだが、こんな奴は初めて見た」
魔法の力で作り出された不死の兵、即ちゾンビとも異なる。
ネッロの容貌は、一般人ならばその場で失禁してしまいそうな程の凶暴且つ不気味なそれへと変貌し、
実際冒険者であるガルシアパーラをすらすくませてしまったのだが、しかしほんの微かにではあるが、
若干の知性は残していそうな雰囲気があった。
かと言って、同じく知性を有する不死の魔物・吸血鬼とは、明らかに勝手が異なる。
その端的な差異として、目の前の魔物ネッロの大きく咆哮を放った乱杭歯には、鋭く牙のように
伸びた犬歯が見当たらないのである。
どちらかと言えば、肉を噛み千切り、磨り潰す為に生えているような乱杭歯と言うべきか。
「先手必勝じゃ、これでも食らうが良い」
キャロウェイが両手剣で牽制しているその傍らで、鍛冶の神ブラキへの祈りを完成させたゴルデンが、
不浄退散の法力を行使した。
が、結果は芳しくない。
ネッロはまるで動じた様子も見せず、再びあの獰猛な肉食獣のような咆哮を上げただけであった。
鍛冶の神に祈りが届かなかった、という訳でもないし、何よりゴルデン自身は、確かな手応えを
感じていたのだが。
その直後、奇妙な現象が生じた。
鍛冶の神の聖紋をかざしていたゴルデンの左掌に、一瞬ではあるが、激痛が走ったのである。
(な、なんじゃ?)
さすがのゴルデンも、これには内心戸惑った。
そしてよく見ると、それまで鍛冶の神の聖紋を握り締めていた左掌に、裂傷が生じていたのである。
原因は全く分からない。

丸太の様に太い豪腕を振り上げて、ネッロがキャロウェイに襲いかかった。
さすがに熟練戦士のキャロウェイは、直撃を受ける事無く、余裕を持ってこれをかわした。
が、渾身の力を持って叩きつけられたネッロの右拳は、ぐしゃりと鈍い音を立てて破裂するように
砕け散ったのだが、同時に、その石畳の床も直径1メートル程に渡って陥没した。
恐るべき破壊力と言うべきだが、攻撃したネッロの肉体自身が、その攻撃力に耐えられないらしい。
念の為に、ルーシャオがテオの六角棍に魔力付与の呪文を詠唱し、的確なダメージを与える事が
出来るよう処置した。
ネッロが態勢を立て直すよりも先に、テオは六角棍でネッロの左肩口に突き込んだ。
実に驚くべき結果だが、テオの六角棍の先端は、ネッロの左肩口に、鎖骨を砕きながら深々と
突き刺さったのだ。
槍などではなく、単なる木製の六角棍が、果たして肉体細胞を突き破って貫通するなど、有り得る
話であろうか。
いくら魔力付与で攻撃力を高めているとは言え、これは明らかにおかしい。
だが実際に、六角棍は鈍い手応えをテオの両掌に伝えながら、ネッロの白い肌を突き破り、どこか
汚らしい印象の、どろりとした紅い体液を撒き散らした。
尤も、攻撃を受けたネッロには打撃を受けた様子は欠片も感じられず、何事も無かったかのように、
左肩口にテオの六角棍が突き刺さったまま、のっそりと立ち上がろうとしていた。
自然、テオも上体が浮き、六角棍を握った両手が上へ上へと持ち上げられる格好になった。
「テオ、かわせ!」
フォールスが鋭く警告の言葉を発するが、呆然とネッロの醜い悪魔の様な容貌を見上げているテオの
耳には、その意味がすぐには理解されなかったらしい。
石畳に叩きつけられ、完全に原形を残さずに砕かれているネッロの右手が、大きく振りかぶられた
その直後、テオは側頭部に強い衝撃を受けて、冷たく硬い石畳に全身を叩きつけられた。
端正な面と、左側東部は真紅の血糊でべっとりと染まっているが、これはテオ自身のものではなく、
ネッロの骨と筋肉繊維が剥き出しになった右手首から付着したものであるらしい。
この僅か数分の戦闘中にも、ネッロをじっと凝視して観察し続けていたフォールスは、ある結論を
得たらしく、不意に自分の腰に吊り下げているランタンの油口を開くと、そのまま無造作に、
ネッロの衣服めがけてランタンを投げつけた。
油口が開け放たれている為、当然ネッロは油まみれとなった。
そこへ、フォールスはルーシャオが掲げる松明の炎の中から、火蜥蜴による一撃を見舞った。

フォールスの精霊法術による炎の弾丸を受けて、ネッロの衣服に付着した油が燃え上がり、実に
小気味が良い程の勢いで、一気にその巨体を火達磨へと変えた。
「矢張り、再生能力は無いようだな」
冷静に小さく呟いたフォールスだったが、しかし全身を焼かれても尚、傲然と佇んでいる巨体には、
さすがに戦慄を覚えた。
まだ更に仕掛けてくるか、と身構えていたキャロウェイや冒険者達であったが、しかしながら、
炎にすっぽりと覆いつくされたネッロには、最早動くエネルギーは残されていなかったらしく、
ただその大きな顎だけが上下に動いた。
この世のものとも思えない、低く、くぐもった哄笑が、円形の小部屋内に轟いた。
「おとの、おわりは、せい、の、おわり、うつつ、の、よとの、わかれ、と、おも、え」
全身を紅蓮に染めているネッロが、ネッロではない何者かの声で、途切れ途切れにそう言った。
恐ろしく不気味な響きであった。
思った以上にネッロの肉体が激しく燃えたのは、全身の脂質が変化して燃えやすい成分になっていた
為かと思われる。
ほとんど骨だけの状態になるまで肉体が燃えた後、ネッロだったものは、支えるべき筋肉を失って、
ぐしゃりとその場に崩れ落ちた。
「一体、何だったんだよ、あれ・・・」
呆然と呟くリグの隣で、フォールスは腕を組んだまま、訝しげな表情を作っている。
ネッロ以外に、負の精霊力をまとった敵は、近くには居ない筈なのだが、今この場に充満している
負の精霊力に関しては、説明がつかないのである。
不意に、テオが苦痛に伴う低い呻き声を漏らした。
ゴルデンが負傷したテオの傷を癒すべく、鍛冶の神に祈りを奉げて、治癒の法力を行使したところ、
本来なら腫れが引いて痛みが和らぐ筈のところが、逆にテオの左の額に裂傷を作ってしまったのだ。
明らかに、現象が逆転している。
何が起きたのかよく理解出来ないといった様子で、呆然と尻餅をついた格好のまま、テオはその場に
へたり込んでいる。
ネッロは謎に満ちた不死の魔物と化したが、モイセス達はどうなったのであろうか?
そして、クリスタナ達の安否もまだ、以前として不明のままである。


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