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アレクラスト大陸最大の学術都市国家オラン領の最南端に位置する沿海都市ブラードは、年間を通して、
温暖な気候に恵まれており、基本的に防寒具を必要としない土地柄である。
時期によっては薄着一枚だけで一日中事足りる事も多く、結果として、肌の露出の多い服装が、大半の
住民の普段着として定着している模様であった。
冒険者テオ・ルイス・ファーディナンドは、グロザムル山脈中腹に位置する山岳小都市アズバルチでの
生活をそのままブラードに持ち込んできてしまった為、ブラード到着直後は、余分な衣服の処理に、
無駄に手間取る時間を費やす羽目になった。
アズバルチとここブラードでは、平均気温だけで10度近い差がある。
その事実を知ったのが、グロザムル山脈を降りて、街道沿いにブラードの街門を遠めに眺める位置まで
歩を進めてきたところであった。
山岳上の気候に慣れ切っている体には、ブラードの温暖な海風は、むしろ暑苦しく感じられた。
海上を吹き抜ける潮を含んだ風が直接内陸方面に上陸する為、いつも汗でべとっとしているような、
妙な不快感にも襲われた。
いずれ慣れるであろうとたかをくくっていたテオだったが、意外にも、なかなか慣れない。
これは単純に肉体的・物理的な要素だけが原因ではなく、多分に、精神的な鬱屈も大いに関係している、
と考えるべきだろう。
その理由は、自分自身でもよく分かっている。
分かってはいるのだが、しかしそれを今更とやかく論じたところで何も始まらない事も十二分に承知し、
胸のうちに溜め込んでいる為、ストレスとなって彼の肉体に変な重圧を与え続けていた。
要するに、この慣れない気候と、今まで味わった事の無いストレスの為に、気分が優れないのである。
それが、暑苦しい不快さとなって、テオを悩ませているに過ぎない。
この日テオは、ブラードに軒を構える複数の冒険者の店が共同主催するという武術会に参加する為に、
参加申請の手続きを終えた後で、腹ごしらえの為に小料理屋に足を運んでいた。
武術会には、冒険仲間数名も参加予定であった。
精霊使いのフォールス・スルースパスは、最近盗賊としての技量にも磨きをかけ始め、ようやく素人の
域を脱してきている様子であった。
接近戦に限って言えば、今やテオと並んで主戦力になり得る実力をそなえつつある。
尤も、常に能面のように表情を押し殺し、恐ろしく愛想が悪い為、盗賊には必須の交渉能力に関しては、
自分でも不向きであると自覚しており、その分、実技を偏重する傾向がある事も承知していた。

経験だけはやたらと長いものの、こと冒険者の技量ではテオやフォールスといささかも変わりが無い
クィン・ガルシアパーラは、意外ではあるが、テオと並んで、チームの前線主戦力として目されていた。
実際のところはほとんど役立たずで終わる事が多いのだが、目立ちたがり屋で、何かと表に出ようと
前に前に出る性格から、テオと双角を為す戦士だ、などと自認し、そのように吹聴もしていた。
このガルシアパーラもまた、武術会への参加申請を済ませている。
彼らが武術会への参加を決めた最大の理由は、優勝賞金に掲げられているガメル銀貨千枚を獲得する為、
であったが、ガルシアパーラはそれ以上にもう一つ大きな動機がある。
それは、最近チームに加わった美貌のハーフエルフ女性エディス・レ・バンナに対する色目であった。
エルフの血筋を受け継ぐ種の典型として、エディスは肌理細やかな白い肌と端正な美貌の持ち主で、
女性には無頓着なフォールスでさえ、その麗しい面には感心する事が多かった。
もし彼女が一人で街中を出歩いていたなら、ナンパ目的の若者が後を絶たずに声をかけてくるだろう。
露出度の高い衣服や装備も、周囲の注目を否応無しに集めてしまう。
エルフの集落で育った彼女は、人間男性の好色さにはほとんど無知に等しく、豊満な肉質を誇る胸元が
大きく開放され、尻の肉が半分以上剥き出しになり、太股に至っては完全に露出してしまっている様な
革鎧が、性的フェロモンを至るところで発散しまくっている事実に、全く気づいていない様子だった。
これほどの色気と美貌に、ガルシアパーラが参らない訳がなく、彼女と行動を共にするようになって
以降は、何かと色目を遣うようになっていた。
ただ悲しいかな、エディス自身はガルシアパーラを性的関心の対象とは見ていない様子であった。
そこで一念発起したガルシアパーラは、自分の男らしさと頼り甲斐を大いにアピールする為に、テオや
フォールスらと同様に、武術会への参加を決めたのである。
尚、エディスは自身武術会への参加は見送った。
接近戦能力には全く自信が無かった事に加え、テオやフォールスからも参加はやめるように言われ、
素直に従った次第である。
エディスの他にも、参加を見合わせているのが、ドワーフの下級司祭ゴルデンと、魔術師ルーシャオの
両名であった。
ルーシャオは物理戦闘に於いてはまるで素人並みであるからまだ分かるのだが、ゴルデンの辞退は、
余人にはいささか意外に映るかも知れない。
しかしながら、ゴルデンの接近戦能力は、その頑健な肉体とは相反して、思いのほか貧弱であった。
装備こそは、唯一の金属性鎧を所持している為、ある程度堅いと言えば堅いのだが、いかんせん、彼の
戦士としての能力は、冒険者としては最低の部類に入る為、積極的な攻撃には全く向かないのである。
その為主戦力にはテオ、フォールス、ガルシアパーラなどが名を連ねるが、いずれも決定的な攻撃力を
誇るという訳にもいかず、パーティとしての近接戦闘力は、平均的な冒険者パーティとしては、いささか
物足りなさが目立つ。

前述したように、テオはここブラードに到着して以降、精神的な要因もあり、身体能力には若干ながら
不安を抱えているような状況である。
気持ちを切り替えてしっかり調整さえすれば問題は無いのだろうが、今の彼にはそれすらも苦痛だった。
そんな訳で、多少ぼんやりした意識で食事を済ませ、いざ会計に望もうとしたところで、テオは思わず、
自分の目を疑った。
彼が陣取っていたのはカウンターテーブルの一角で、隣の椅子に手荷物やガメル銀貨などを押し込んだ
背負い袋を放り出していた。
それが、食事を終える頃になってようやく、なくなっている事に気づいたのである。
(しまった・・・置き引きか!)
内心非常に狼狽しながら、小料理屋を出て行こうとする中肉中背の後姿が抱える見慣れた背負い袋に、
さっと視線が飛んだ。
「待て!」
置き引き犯を追いかけようと身を翻し、小料理屋の入り口を飛び出そうとしたテオだったが、しかし、
意外な方向から複数の手が伸びてきた為、思わずつんのめり、石畳の路上に顔面を押し付けられた。
「おい!食い逃げしようなんて考えは捨てた方が身の為だぞ!」
小料理屋の主人であろう、恰幅の良い人間の中年男性が放つ怒号に、若い店員達や他の客などが一斉に
飛び掛ってきて、テオを取り押さえたのである。
「ち、違うって!ほら!あいつが僕の荷物を盗んで逃げたんだよ!」
路上に五人がかりで押さえ込まれながらも、テオは必死に事情説明を試みるのだが、余所者である彼の
言葉に耳を貸そうとする者は一人も居ない。
別の誰かが、足早に憲兵隊詰め所へと走る姿も見えた。
ここで捕吏の手に渡ろうものなら、とても武術会への参加など見込めない。
仲間に要らぬ迷惑をかける事にもなろう。
(冗談じゃない!)
渾身の力を込めて取り押さえる手を弾き飛ばそうと思ったその時、彼の目の前に、置き引きされた筈の
背負い袋が、ひょいと差し出された。
テオは、拍子抜けしたように、彼の背負い袋を差し出している美麗な面の女性を見上げた。
「はい・・・これ、あなたのですね?」
「おぅ、リリーちゃんじゃないか」
応じたのはテオではなく、小料理屋の主人であった。
まだ幼さを僅かに残す美貌の主は、柔らかな笑みで小料理屋の主人に軽く会釈を返した。
リリーと呼ばれたその女性が差し出す背負い袋に、テオは必死に手を伸ばした。
さすがに彼を取り押さえていた人々も、リリーなる女性が背負い袋をテオに渡すに及んで、いつまでも
彼を路上に押さえ込む訳にはいかなくなり、それぞれが手を放した。

「おいあんた、リリーちゃんには、しっかり礼を言っておくんだな」
いささかばつが悪そうに、やや悪態混じりで言い放つ小料理屋の主人の言葉など、テオの耳には全く
届いていない様子だった。
草色の質素な色合いと材質のワンピースを身にまとうリリーという美女は、背中に届くブラウンの髪が
風に揺れる様が実に清楚で、世間に全くすれていないような印象すら与えた。
しかし彼女が、決してただの市井の民ではない事実は、テオの背負い袋を事も無げに奪い返してきた
事からも容易に察する事が出来る。
ロングヘアーの間から僅かに覗く尖った耳先から、彼女が人間種ではない事がうかがえた。
要するに彼女もまた、エディスと同じくハーフエルフなのであるが、エディスとは全くタイプが異なり、
露出度は極めて少ない上に、清楚なお嬢様といった印象がありながら、しかし接近戦闘に関しては、
それなりに技術を持っているという現実が、テオにはにわかに信じられなかった。
「見たところ、冒険者の方のようですが・・・街のゴロツキ風情に置き引きされるようでは、気が
  たるんでいると言われても仕方ありませんよ。お気をつけくださいましな」
穏やかな笑みと、細い絹のような優しい声音ではあったが、その台詞は実に辛辣で、テオの胸に、
ぐさっと突き刺さるだけのインパクトがあった。
(綺麗な人なんだけど・・・何て言うか、苦手なタイプだよなぁ)
何とも言えない表情を作りながら礼を述べ、背負い袋を受け取ったテオは、勘定を済ませ、そのまま
逃げるようにして、冒険仲間達が宿泊している冒険者の店『青鯛亭』へと引き返した。
「どうした?何かあったのか?」
一階酒場から二階宿部屋に向かう木組みの階段を登ろうとしたところで、手近の丸テーブルに席を
取って昼食を終えようとしていたフォールスが、訝しげな表情で声をかけてきた。
同席していたエディスとゴルデンも、興味深げに若干身を乗り出して、テオの言葉に耳を傾けようと
しているのが、何ともおかしかった。
一瞬、どう答えようか迷ったテオだったが、結局小料理屋での一件には触れず、適当に言葉を濁して、
そのまま二階へと消えてしまった。
「なんじゃぁ?ここ最近ずっと陰気気味じゃったが、今日はいつにも増して愛想が悪いのぅ」
「絶対何かあったんだと思うけど、言いたがらなさそうな雰囲気だったね」
ゴルデンとエディスが顔を見合わせる傍らで、しかし最初に声をかけたフォールスは、既に興味を
失ったように、食後の熱い紅茶で唇を湿らせていた。

武術会は、その日の夜に開催された。
会場は街の北街門脇にある憲兵隊の錬兵所であった。
石造りの塀に覆われた円形の広間、という実に簡素な構造であったが、収容力だけはやたらと大きい。
篝火を幾つも焚いて照明を確保しており、明るさには全く問題が無い。
中央には簡易戦闘の為の石舞台が設置されているのだが、トーナメント形式で対戦が組まれた参加者が、
次々と舞台上に上がり、勝負を決していく。
但し、本物の武器は使用せず、各参加者が最も使い慣れた武器を模した木製の武具で、戦いに望む。
テオの場合、もともと長棍を愛用している事もあったが、芯が入っているのは危険性が高いと判断され、
彼にも憲兵隊から似たようなサイズと重さの長棍が貸し出された。
くじ引きで、テオはフォールスとガルシアパーラとは、異なるブロックに割り振られた。
順当に勝ち進めば、準決勝に至るまでは、フォールス或いはガルシアパーラと当たる事はない。
鉄の杭で石舞台を囲み、杭同士に荒縄をかけた簡易の立ち見観戦場で、ルーシャオ、ゴルデン、そして
エディスといった面々は、仲間の試合に精一杯の声援を送っていたのだが、しかしその甲斐も無く、
まずフォールスが、続いてガルシアパーラが、同じ相手に敗れた。
その相手というのが、実に因縁めいていた。
(あの女性は・・・!)
思わず、控えスペースでテオは息を呑んだ。
フォールスとは接線を制し、ガルシアパーラ相手にはほとんど一瞬で勝利を収めたその人物こそ、
昼間に小料理屋前でテオの窮地を救った、あのリリーという美貌のハーフエルフ女性だったのである。
相変わらず、質素で地味な色合いのワンピースに身を包み、一見しただけでは市井のお嬢様、という
印象を与える外観ながら、小剣を模した木製武具を巧みに操り、スカートの裾をほとんど翻さず、
軽やかなステップで相手の攻撃をかわす技量に、テオのみならず、実際に対戦したフォールスなども、
思わず舌を巻いた。
「あのハーフエルフ・・・相当手強いぞ」
長剣型の木製武具を小手打ちで叩き落されたフォールスの忠告を受けるまでもなく、テオはリリーの
戦闘能力に、相当な警戒感を覚えるようになっていた。
が、それでもテオは準決勝でリリーにあっさり負けた。
彼女は試合開始直後から一気に間合いを詰める戦術を取り、一分もしないうちに、小剣型木製武具の
切っ先部分を、テオの懐に飛び込み様に、彼の喉元に突きつけたのである。
ルール上、相手の急所に武器を突きつけるか、武器そのものを叩き落した時点で勝利となる。
リリーはそのルールを巧く利用して、テオから勝利をもぎ取ったと言って良い。

ところが、決勝にはリリーの姿は無かった。
彼女は準決勝でテオを破った直後、都合の為、錬兵所を辞していたのである。
その為、彼女の決勝での相手だった無名の駆け出し冒険者が不戦勝として、優勝賞金を獲得したのだ。
結局何も得るところ無く青鯛亭に戻った冒険者達は、そのまま反省会と称して、一階酒場で夜遅くまで
エールをあおり、揚げ物や串焼きなどをつまんでいた。
しかし、翌朝になって事態が急変した。
青鯛亭の主人は、頑健な体躯ながらも結構な年の老人で、人当たりの良い世話好きな元冒険者なのだが、
若干二日酔い気味の頭痛に悩まされながら階段を下りてきたテオを見るや否や、血相を変えて足早に
歩み寄ってきた。
朝市から宿泊客分の朝食用食材を仕入れてきたばかりらしく、酒場のカウンターに食材を詰め込んだ
編み籠を放り出している。
「おいあんた、昨夜武術会に出とった筈じゃな!?体は、何とも無いか?無事か?」
一瞬テオは、宿の主人が何を言っているのか理解出来ない様子で、呆けた表情を作っていた。
しかしよくよく話を聞いてみると、確かにこの老主人が顔色を失う理由が分かってきた。
聞けば、昨晩あの武術会に参加した腕自慢の連中のうち、約半数に近い人数が、大量の血痕を残して
行方不明になっているというのである。
その数は、実に二桁にのぼろうかという勢いであった。
そんな情報を、老主人は朝市で他の冒険者の店から買出しにやってきた同業者連中から聞き集めている
最中に、彼の切り盛りする青鯛亭にも武術会に参加していた宿泊客が居た事を思い出したのだ。
一晩のうちに、それだけの人数の冒険者が同じような状況で一斉に姿を消してしまうなど、普通では
有り得ない話であろう。
これが何かの事件かどうかはまだはっきりしないが、異常事態であろうという認識は誰が持っても
然るべきであり、テオもまた、老主人と同様の危機感を即座に抱いた。
「何かあったのか?」
疲れた表情で階段を下りてきたフォールスの長身の姿を見た時、老主人のみならず、テオもすっかり
目が覚めた様子で、安堵の表情を浮かべた。
その後、ガルシアパーラも数分後には朝食の為に階段を下りてきたから、彼らの中で、行方不明に
なった者は居ないという事になる。
「あのハーフエルフは、どうなったんだろうな?」
殊更興味があった訳ではなかっただろうが、フォールスが漠然とした表情でそうひとりごちた時、
テオは意味も無く焦燥感に駆られた。
少なくとも彼は、リリーには借りがある。
無事で居てくれれば良いが、という想いは、多少なりともあっただろう。

しかし、テオのそんな懸念は杞憂に終わった。
青鯛亭で事態の深刻さを改めて認識し、さぁこれから何をどうしようかと考えていたところで、
件のその本人であるリリーが、ひょっこり顔を出したのだ。
今朝は、純白のシャツにキュロットスカートといった、動きやすそうないでたちである。
「おはようございます。皆様お揃いのようですね」
朝の爽やかな空気をそのまま象徴するかのような穏やかな笑みで、開け放たれた入り口扉をくぐる
美貌のハーフエルフに、冒険者達は三者三様の表情を浮かべた。
テオは馬鹿正直な程に安堵し、ガルシアパーラは二人目の見目麗しいハーフエルフに心ときめかし、
フォールスはタイミング良く現れたリリーに訝しげな思いを抱いて仏頂面を作った。
老主人は、リリーとは顔見知りらしく、また、彼女が昨晩の武術会に参加していた事も知っている
様子で、彼女の無事をこうして直接確認出来た事に、非常な安心感を覚えている風でもあった。
「おじさま、失踪の件、お聞きになられたようですね」
「リリーちゃんも聞いたみたいじゃの。何か、思い当たる節でもあるのかい?」
覗き込むような老主人の問いに、リリーは僅かに頷き、冒険者達にも視線を順々に送りながら、
明快な調子で口を開いた。
「実はわたし、昨晩の早い段階から、今回の事態が発生するであろう事を、ある人物から聞かされて
  おりまして・・・その人物曰く、まだ失踪していない昨晩の武術会参加者を全員呼び集めて、屋敷で
  説明会を開きたいとの仰せなのです」
つまり彼女は、その伝聞役を言いつけられて、こうして各冒険者の店を朝から廻っているのだという。
「で、あんたが言う、そのある人物とは何者だ?」
「隠してもいずれ分かる事ですから申し上げましょう・・・シーボート退役提督閣下ですわ」
フォールスの問いに対するリリーの応えに、驚嘆したのは店の老主人であった。
ウィンダム・シーボート退役提督について、ここで若干補足しておく。
彼はオランに於いて本格的な海上機動兵力の設立に貢献した最初の人物で、陸上での沿岸防衛思想から、
海面上での積極防衛機能の有効性を万民に知らしめたという点で、非常に高い功績を残している。
オラン建国から近年に至るまで、即ちシーボート提督が現れるまでは、沿岸防衛思想の主力はあくまで
陸上兵力であり、海上に船舶を浮かべての機動兵力は、全く眼中には置かれる事が無かった。
これを覆したのが、シーボート提督である。
彼は武装商船で有名なムディールに留学し、海洋戦力の重要性を目に焼き付けてきた人物で、領地が
直接外洋に接しているオランに於いて、海上兵力があまりにも少なすぎる点に長年疑問を抱いてきた、
というその一点だけを見ても、非凡な才能と発想力を誇る事が分かる。

シーボート提督は先年還暦を迎えた老齢の上級退役将校だが、若い頃は相当金銭に悩まされ、生活にも
窮する程の貧乏貴族だったらしい。
中年を過ぎる頃にようやく今の上級貴族としての身分も手に入れたとの事だが、隠遁生活を送っている
現在に於いても、その影響力はオランの内外で非常な勢いを誇っているという。
また同時に、彼は冒険者に対しても良き理解者であった。
特に地元出身で様々に活躍している、或いはブラードに拠点を置いている他国出身の冒険者達の間では、
影から色々と手を貸してくれる有力者として君臨している事は、公然の秘密でもあった。
リリーがシーボート退役提督に顔が利くとしても何ら不思議ではなかったが、今回の一件のように、
彼が直接事件に関与してくるという事は、これまでほとんど無かった為、青鯛亭の老主人も、相当な
驚きを見せたのであった。
テオとフォールス、そしてガルシアパーラも、ようやく事の重大さに気づき始めた頃合になって、
二階宿部屋から、ルーシャオ、ゴルデン、エディスといった面々が階段を下りてきて、老主人から
事情を聞くに及んだ。
シーボート退役提督は、昨晩の武術会に参加した冒険者達を集めるようリリーに指示していたのだが、
その仲間をも同伴させる事については、リリーに一任させていた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたわね。わたしはリリーアン・ストラックです。どうぞよしなに」
いかにも優雅な振る舞いで礼を尽くす彼女に、同じハーフエルフであるエディスなどは、どのように
対応して良いのか分からず、あからさまに戸惑っている様子であった。
エルフの集落育ちであるエディスにとって、リリーは同じ種でありながら、むしろ全く異質の存在の
ように思われてならなかったのである。
困ったのは、ガルシアパーラであった。
彼はこれまで色気と美貌の双方を兼ね備えるエディス一筋に色目を使い続けてきたのであるが、ここで
新たにリリーという存在が現れた事で、成就の可否はともかく、鞍替えすべきかどうかを本気で悩む
風を見せていた。
「それで、僕達はどうすれば良いのでしょう?」
「シーボート退役提督閣下か。もし可能なら、わしらも顔つなぎしといた方が良いかも知れんのぅ」
不安げなルーシャオとは対照的に、ゴルデンは不安感など微塵も見せず、積極性を覗かせている。
もともとゴルデンはエレミア方面からアズバルチへと渡ってきたという経緯もあり、ブラードに於ける
シーボート退役提督の評判は前々から耳にしており、一度会ってみたいとも思っていた。
「わたしももう、閣下の屋敷に戻っても良いのですが、武術会の過去に関係があるとの事でしたので、
  先に調査しておいても良い気がしています」
とは、リリーの弁。
誰かに話しかけるというより、自身の考えをまとめるような口ぶりであった。


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